小説「サークル○サークル」01-431「加速」~01-432「結末」まとめ読み

「それはミステリーだね」
家に帰るなり、アスカは今日のマキコとのやりとりをシンゴに話した。それを聞いたシンゴは首を傾げながら、言った。
「そうなのよ。理解出来ないわ。自分が不倫していることを認めてしまえば、いいだけの話でしょう?」
「認めたくない何かがあるか、はたまた……」
「何よ? 他にも何か理由があるの?」
「いや、そんなことないと思うんだよな……。突拍子もなさすぎる。きっと、何か他の理由があるんだろうね」
「気になる……」
「でも、もう終わった案件なんだし、アスカが気にすることはないよ」
「そうなんだけど……」
アスカは腑に落ちないようだった。
「さーて、そろそろ、寝ようかな」
「仕事はいいの?」
「もう脱稿したから、大丈夫」
シンゴは微笑むと、寝室に消えていった。

シンゴは寝室のベッドに寝転ぶと、ひんやりとしたシーツの感触にどきりとする。
睡魔がゆっくりと身体を侵食するには、まだ時間がかかりそうだな、とシンゴはその冷たさを感じながら思った。

あれから数日が経ったある日、シンゴはいつもの公園のベンチでユウキとのんびりコンビニのパンとおにぎりを思い思いに食べていた。
「不倫、やめさせられたんだって?」
「はい、お陰様で」
「じゃあ、彼女とは付き合えたの?」
「いや、それが……」
ユウキは言いながら、渋い顔をする。
「不倫をやめるのと、俺と付き合うのは、また別の問題みたいで」
「なるほどね」
適当に相槌を打ち、シンゴは身近に自分を思ってくれる相手がいても、その相手を恋愛対象として見られるかは別問題だよな、と思う。
「でも、諦めませんよ。頑張ります。だって、やっと、彼女は――レナはフリーになったんですから」
「頑張って。他の男に取られないようにね」
冗談交じりに言うシンゴはユウキは「脅かさないで下さいよ~」と笑った。
穏やかな昼下がりだ。
つい最近まで、こんがらがっていた糸がこんなにも綺麗にほどけるなんて思いもしなかったな、とシンゴは思っていた。

「あー、おかえり」
シンゴが帰ると、アスカがシンゴを出迎えた。
「随分、早いんだね」
「今日は特にやらなきゃいけないこともなかったから、たまには家事をしっかりやろうかなって思って」
「ありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないわよ。いつもしてもらってるんだから、たまにはこのくらいしないとね」
アスカの言葉にシンゴは微笑み、ソファに座った。
「あのさ、アスカ」
「何?」
「俺のこと、好き?」
「何言ってるのよ、いきなり」
「真面目に聞いてるんだよ」
キッチンにいるアスカの方を見ずに、シンゴは言う。
シンゴからは、アスカの顔は見えない。一体、彼女がどんな顔をしているのだろう、と思いながら、彼女の言葉を静かに待った。
「好きよ」
アスカは穏やかな口調で言った。
その言葉に照れはあったものの、嘘ではないということは、聞いていて、すぐにわかった。
「良かった」
「私にだけ言わせるつもり?」
アスカの言葉にシンゴは面食らいつつも、「好きだよ」と一言返した。
言葉に出さなければ、何も伝わらない。
言葉にしなかったから、アスカとシンゴの間には、溝が出来てしまったし、こじれていってしまったのだ。
アスカとシンゴは微笑み合う。
そこには確かな絆があった。
「ねぇ、あのカフェでお茶しない?」
アスカに腕を引っ張られ、シンゴは「いいよ」と頷いた。
春の陽射しが暖かい休日の午後、アスカとシンゴは表参道でデートを楽しんでいた。
季節の所為だろうか。キラキラと輝くように木々は葉を茂らせ、時折、吹く風は清々しかった。
そんな状況に幸せを感じながら、シンゴはアスカの隣を歩く。すると、不意にアスカが立ち止まった。
「どうしたの?」
呆然と立ちすくむアスカにシンゴは問う。
「あれ、見て」
アスカが指差したその先には、マキコ――そして、全く同じ顔をした女がもう一人歩いていた。
「あの人、依頼者なの。依頼者が二人いる……」
アスカは驚きながら、シンゴを見る。
「双子ってことだろうね」
シンゴは然して驚く様子もなく、冷静に答えた。
「知ってたの?」
シンゴの受け答えにアスカは驚きながら言う。
「いや、知らないよ。前に言ったでしょ? “突拍子もなさすぎる”って」
「ああ」と言って、アスカは前にシンゴがそこまで口にして、別の理由があるんだろう、と言ったことを思い出していた。
「依頼者が本当にアスカたちに気が付いていなかったとして、考えられる可能性は、双子であるという可能性。同時期に妊娠していれば、お腹は大きくたって、なんの不思議もないし、顔が一緒でもおかしくない」
「じゃあ、前の案件で不倫をしていたのも……」
「それはどちらかわからないよ。過去に不倫してたって、幸せな結婚生活を手に入れる人はいるからね。たとえ、相手の家庭を壊していたとしても」
「不倫ねぇ……」
アスカはぼやくように言葉にする。
別れさせ屋の彼女にとって、不倫は身近なものだった。
不倫があるから、アスカの仕事が成り立っていると言っても過言ではない。
きっとアスカも思うところがあるのだろう。
そんなアスカの横顔を見ながら、シンゴは彼女の手をそっと握った。

小説「サークル○サークル」01-421~01-430「加速」まとめ読み

「あの動揺の仕方はおかしかったですもんね」
「ええ。すごいタイミングよね。自分の奥さんの不倫現場を目撃するなんて。しかも、旦那に気が付いても、奥さんは顔色一つ変えなかったもの」
「だから、余計に傷ついたのかもしれませんね……」
レナは複雑そうに俯いた。まだヒサシに気持ちが残っているのか、それとも、一度は愛した人が傷つくのが辛いのか、はたまた、そのどちらもなのかはわからない。けれど、どちらにせよ、レナとヒサシの不倫は終わったのだ。
「でも、最後まで、不倫相手になる気持ちはわからないままだったんでしょうね」
アスカはレナの寂しげな微笑みが忘れられそうにもなかった。

ユウキとレナと別れて、事務所で簡単な事務処理をすると、アスカは帰宅した。
玄関のドアを開けると、ビーフシチューのいい香りが鼻先をつく。
「ただいま」
「あー、お帰り。今、ちょうど、夕飯作ってるところなんだ。先にお風呂に入っておいでよ」
「ありがとう」
アスカはコートをハンガーにかけ、バスルームへと向かった。

アスカは風呂から上がり、食卓テーブルを挟んで、シンゴと向かい合って座った。
熱々のビーフシチューと温玉サラダ、フランスパンが目の前に置かれている。
赤ワインで乾杯すると、二人は食事を始めた。
「今日は上手くいった?」
シンゴの言葉にアスカは待ってましたとばかりに口を開いた。
「上手くいったの。でもね、すごいハプニングもあったのよ」
「ハプニング?」
シンゴはビーフシチューを口に運ぶ手を止めて、不思議そうな顔をする。
「ターゲットの奥さん――依頼主が偶然、喫茶店に来たの」
「へぇ……。そんなことがあったんだ」
「しかも、奥さんは不倫相手とイチャイチャしながら、入って来たのよ」
「えっ!? それは修羅場になったんじゃ……」
「そう思うでしょ? でも、ターゲットが奥さんに気が付いて、じっと見てたら、奥さんもターゲットの視線に気が付いたのよ。だけどね、奥さんは顔色一つ変えなかったの」
シンゴは驚いたように目を見開いた。やはり、普通は動揺するものなんだな、とアスカは思った。

「それでどうなったの?」
興味津々といったようにシンゴはアスカに続きを促した。
「ターゲットは奥さんに詰め寄ることなく、“浮気って、されるとこんなにも心が痛いものなんですね”って言って、先に一人で出て行っちゃったのよ」
「へぇ……」
シンゴは意外だと言いたげに相槌を打った。
「でも、これでターゲットの方は一段落したし、明日、依頼者に連絡して、成功を報告すれば今回の案件は終了するわ」
「そっか。それは良かったね。お疲れ様」
「うん、ありがとう」
アスカはシンゴの労いに微笑む。
漸く、随分と手を焼いていた仕事が片付くのだ。アスカはほっとしながら、熱々のビーフシチューを口に運んだ。
シンゴの作る、いつも通りの、ビーフシチューの味がした。

翌朝、アスカは事務所に行くと、早速、マキコに連絡を入れた。
結果、報告をしたい旨を伝えると、すぐに来るという返事をもらった。
アスカはどういった流れで、話を持って行こうか、と頭を悩ませていた。

“あなたも浮気していたんですね”とストレートに言うわけにもいかない。けれど、事実関係をはっきりさせておきたいという気持ちもあった。でも、それはアスカの立場で踏み込んでいい領域ではないこともわかっている。
アスカは煙草に火をつけて、気持ちを落ち着かせようとした。一本吸うともやもやは少しおさまった。続けて、二本目に火をつける。二本目を吸い終えても、気持ちが完全に落ち着くことはなかった。
大きく溜め息をついて、天井を見上げる。アスカは机の上に足を上げ、目をつぶった。
自分のしている仕事の意味を考える。誰かを幸せにして、誰かを不幸にする。けれど、それはただ元の状況に戻しているだけだ。
元の形から変形して、不倫という形を選ぶには、きっと何かしらの理由がそこにはある。その理由を半ば無視して、法的に問題があるからと、不倫をやめさせるのだ。
それが正しいのか、と問われれば、正しい、と胸を張って言えない、とアスカは思う。
男と女のことに関しては、絶対という正しさは存在しないのだ。

約束の時間から少し遅れて、マキコがやって来た。
「お待ちしておりました」
アスカはドアを開け、マキコを招き入れる。マキコのお腹は傍から見てもわかるほど膨らんでいた。
「ごめんなさい。遅れてしまって」
然して、悪いと思っていないような言い方で、マキコは言った。
「いえ、大丈夫ですよ。今、紅茶をお淹れしますね」
アスカはつも以上に丁寧な口調で話した。きっとアスカ自身も、今からマキコと対峙しなければならないことに少なからず、緊張しているのだろう。
紅茶はノンカフェインのものを選んだ。妊娠しているというマキコの身体に配慮してのことだった。
お湯を沸かし、茶葉の入ったポットにお湯を注ぐ。きっかり、三分経ったのを見計らって、カップに紅茶を注いだ。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます」
テーブルに置かれた紅茶を見て、マキコは頭を軽く下げる。
「紅茶はノンカフェインのものにしましたから、ご安心下さい」
「はい、ありがとうございます」
マキコは微笑む。この微笑みの下には、一体どんな顔が隠れているんだろう、とアスカは思った。この女がかぶっている猫は一枚や二枚じゃない気がしてならなかった。

「お電話でも少しお話させていただきましたが、今日、こちらに来ていただいたのは、ご依頼いただいた件の結果をご報告をさせていただきたかったからです」
「はい」
マキコはあの日、アスカに不倫相手と一緒のところを目撃されているのに、動揺するとこなく、淡々としている。アスカは深呼吸をして、落ち着きたいのを堪えながら、続けた。
「結果から言いますと、今回のご依頼は無事完遂することが出来ました」
「ありがとうございます」
「正直に申し上げますと、不倫相手の方に私が接触した時点で、ご主人は私が不倫相手とご主人を別れさせる為の別れさせ屋だということにお気付きになられました」
「でも、完遂はされたのでしょう? 結果が全てです。特に過程は重視しません」
マキコからの意外な言葉にアスカは動揺しそうになったが、ギリギリ持ち堪えた。
少し、先が思いやられるな、と思ったが、マキコへの報告はまだ始まったばかりだ。
「そうですか……。そう言っていただけると、こちらとしても、ありがたいです。ですが、一応、別の方からの依頼、という勘違いをご主人がなさっていたので、その勘違いを利用させていただいて、奥様からのご依頼だということはバレずに済みました」

「それなら、なんの問題もありませんね。良かったわ。別れさせてもらえて!」
マキコは満面の笑みで言う。
「今日、残りのお支払い分を持って来たんです」
マキコはバッグを開けると、封筒を取り出した。アスカは大金を持って来たことに驚いた。しかし、対照的にマキコは平然としている。
「お手数かけて申し訳ないのだけど、金額が間違っていないか、確認してくださる?」
「お預かりします」とアスカは言って、札束を数え始める。全て数え終ると、アスカは再び封筒の中に戻した。
「ちょうど頂戴致します」
アスカは笑顔を向けて、封筒をテーブルの自分の手元に近いところに置く。
「これで安心して、子どもが産めるわ」
マキコの言葉にアスカは言葉を選びながら、口を開いた。
「あの……この間、喫茶店にいらっしゃってましたよね?」
「喫茶店? ああ、数日前かしら?」
「そうです」
「それがどうかしましたか?」
マキコは何を言っているのだろう、と不思議そうにアスカのことを見た。

どうかしたかって……とアスカは思う。私が気が付いていないとでも思っているのか、とアスカは言いたくなったが、それをぐっと堪えて、努めてにこやかに微笑んだ。
「ええ、私もあの日、喫茶店にいたんですよ」
「えっ? そうだったのですか? だったら、声をかけてくださればいいのに……」
「ご主人も一緒だったの、お気付きになられませんでしたか?」
マキコはアスカのその言葉を聞いた瞬間、眉間に皺を寄せた。
「主人と喫茶店で? 全然気が付かなかったですけど……」
その言葉に今度はアスカが眉間に皺を寄せた。
彼女はあの場所に不倫相手といながら、しらを切りとおそうとしているのだろうか?
アスカは次に問うべき事柄を考えながら、紅茶に口をつけた。
「その後、ご主人とはいかがですか?」
アスカは意気消沈して、去って行ったヒサシのことを思い出して訊いた。
「最近、元気がありません。きっと、不倫相手と別れたことが堪えているんだと思います」
マキコは悲しそうに俯きながら言った。

アスカの頭に疑問符が浮かぶ。
自分が浮気をしているのだとしたら、こんなに悲しそうな顔を出来るだろうか? 演技にしては上手すぎる、とアスカはマキコの表情を見ながら思った。
「果たして、そうでしょうか」
アスカはヒサシには他にも女がいることを思い出し、口にする。
レナと別れたことは確かにショックだったかもしれないが、不倫相手は他にもいる。もし仮にレナを失ったことでショックを受けているのだとしたら、それは一時的なものに過ぎない。そのうち、ヒサシはけろっとした顔で、他の女に愛を囁くことだろう。
「他に何かショックを受けるようなことは思いつきません」
マキコはきっぱりと言い放つ。どこまでも自分が浮気をしていることはしらを切り続けるつもりだろうか。
それならそれでまわない、とアスカは思った。
アスカがすべきことは、他人の夫婦間の問題に首を突っ込むことではない。別れさせ屋として依頼された案件を解決することだ。それ以上のことは、自分の領域ではない、とアスカは自分に言い聞かせた。

「そうですか。わかりました。きっと一時的なものだと思いますよ」
「だといいんですが……」
「少なくとも、不倫相手の方はもう元に戻ることは望んでいません。むしろ、あなたに申し訳なく思っている、と言っていました」
「……」
マキコが黙ったのを見て、アスカは余計なことを言ってしまったな、と思った。
いくら、不倫相手が奥さんに対して申し訳ないと思ったところで、不倫をしていることには変わりはなく、申し訳なく思うくらいなら、不倫なんてするな、というのが妻の立場からの意見だろう。

全ての話が終わった後、マキコを送り出すと、アスカは大きな溜め息をついた。
アスカに残るのは疑問だ。
マキコはどうしてヒサシに気が付かなかった、なんて言うのだろう。アスカはその場にいた、と話したのだ。それにも関わらず、気が付かなかった、と言うことになんの意味もないはずだ。
アスカは別に弁護士ではない。
アスカにマキコの不倫を知られたからと言って、仮に離婚調停が始まっても何か不都合があるとは思えなかった。

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小説「サークル○サークル」01-411~01-420「加速」まとめ読み

「恋愛とは楽しいばかりではありません。不安や嫉妬を覚えるからこそ、その後の二人の関係が深まるのでしょう? 負の感情なしに愛情は深まりませんよ」
一見、ヒサシの言っていることは正論で良い言葉のように聞こえる。しかし、ヒサシの立場を考えると、その言葉の薄っぺらさにアスカは吹き出しそうだった。
“負の感情なしに愛情は深まらない”とよく言えたものだな、と思う。
不倫をしてしまえるような薄っぺらい愛情しか妻に向けられないヒサシが言ったところで、その言葉に全く重みはなかった。
人は自分の立場を忘れて、言葉を選んでしまう時がある。それを目の当たりにすると、滑稽なのだということがよくわかった。
「だからと言って、わざわざ、最初から不安や嫉妬を抱えなければならない不倫を選ぶ必要性はないはずです。幸せになれる可能性が低いんですから」
「何を持って、幸せとするかによりますよ。最初から決めつけることなんて出来ないはずです。好きな人と一緒にいられる幸せの前では、他の不幸せは霞んで見えるかもしれません」
ヒサシはそこで区切るとコーヒーを口にした。

ヒサシの言っていることはよくわかる。けれど、都合の良い言葉のようにアスカには感じられた。
一体、レナは何を思っているのだろう。気にはなるけれど、今、聞くことは出来ない。もどかしさを抱えながら、アスカはヒサシとユウキのやりとりを待った。
ユウキをちらりと見遣れば、何を言おうか思案しているようだった。明らかに歩はヒサシにある。ヒサシは大人の余裕と持ち前の頭の回転の速さでユウキをじわじわと追い詰めている。きっと、ヒサシはもっと簡単にユウキを追い詰めることが出来るだろう。けれど、敢えて、それをしないのは、ヒサシの優しさなのかもしれない。
問題はレナがどういった結論を出すか、ということだ。
二人の会話をレナがどんな風に受け取るのかによって、レナが導き出す答えは異なってくるだろう。ヒサシと本当に別れたいのであれば、ユウキの言っていることに賛同すればいいのは明白だ。けれど、ヒサシの話の内容に心を打たれれば、別れるという選択自体をひっくり返さないとも限らない。

アスカはなるようにしかならない、と思っている反面、彼女の心の中から緊張が消えることはなかった。
「好きな人と一緒にいられる幸せ、とおっしゃいましたよね?」
「ええ」
「その好きな人と一緒にいる幸せとは、お互いがお互いだけを思い合ってる時にこそ、そこに存在するものではないでしょうか?」
「何をおっしゃりたいのかさっぱりわかりません」
「あなたには奥様がいらっしゃるんです。あなたが口ではいくらレナが一番だと言ったところで、二番は奥様ですよね。好きな人に順番がある時点で、その類の幸せは存在しないのではないでしょうか?」
ユウキの言葉にヒサシは「なるほど」と言い、ほくそ笑んだ。
「確かに私には二人の女性がいます。けれど、こうは考えられないでしょうか? 片思いであっても、好きな人に会える幸せは感じますよね? 好きな人に会える幸せというのは、片思いであるか、両思いであるかなんて、関係ないとは思いませんか?」
ヒサシの言葉にユウキは黙った。

きっと、ユウキは今の自分に当てはまるから、言葉を失ったのだろう。ユウキは片思いだとわかっていても、レナと会えることで幸せを感じているに違いなかった。
「いい加減にしてよ」
突然、ずっと黙っていたレナが口を開いた。アスカは驚いて、レナの方を見る。
「私のこと、なんだと思ってるの?」
レナは抑えた声の中にも怒りを滲ませていた。
「私はあなたに片思いをしていたとでも言うの? 私はあなたの一番だと思ってたから、付き合ってたの。それなのに……」
「そういう意味じゃない。言葉のあやさ」
「言葉のあやなんて嘘。そういう気持ちがなければ、出てこない言葉よ。わかってた。あなたに本当は私以外の女の人がいることも」
「……」
ヒサシは意外だというように、ほんの少し目を見開いた。彼が驚きを示したのは、その一瞬だけで、すぐに元の表情へと戻る。
アスカはレナが他にも浮気相手がいるという事実を知っていた、ということを気の毒に思った。大勢いる中の一人である、ということが、どれほど、女のプライドを傷つけるかは、想像に難くない。

「私はあなたと離れることが怖かったの。奥さんに申し訳ないって気持ちだって、ずっと消えることはなかった」
「……」
「そんな気持ち、私が持っていたことだって、ヒサシさんは知らなかったでしょ?」
レナの言葉にヒサシは罰が悪そうな顔をする。レナの言っていることが図星なのだろう。
ヒサシは自分の意のままに、相手を誘導するのが上手いし、女心だってよくわかっている方だろう。けれど、肝心な部分まで、相手のことを見てはいないのだ。
「黙ってるってことは、図星でしょ?」
いつものレナとは明らかに違った。
アスカの前では、弱気な面を見せていたけれど、ヒサシの前でこんなにもはっきりと発言するのだ。
だからこそ、レナの意思の強さをアスカは感じていた。
アスカはただ傍観しながら、ことの行く末を見守っていた。
ヒサシが一言「別れる」と言えば、この話は全て終わる。
けれど、ヒサシはその一言を決して口にはしない。
それはとても狡いことだ。きっとヒサシは気付きながらも、その狡さを心の中で肯定している。

埒が明かないな、とアスカは思った。こんな時、シンゴならどうするだろう、とふと思う。
別れさせ屋なのは、アスカだったが、そのブレーンはシンゴと言っても過言ではない。行き詰った時は、必ずシンゴが助けてくれた。
ヒサシに「別れる」と言わせるには、何を言えばいいんだろうか。それとも、何も言わない方がいいんだろうか。アスカは沈黙が落ちいている間、ずっと考えていた。けれど、答えは出ない。答えが出ないのだから、黙っている以外にどうすることも出来なかった。
沈黙を誰も破ろうとはしない。こんなに重たい沈黙は久々だった。
どうして「別れる」のたった一言をヒサシは言わないのだろう。どうして「別れる」のたった一言を言わせられないのだろう。
堂々巡りの思考にアスカは思わず溜め息をついていた。
その溜め息にヒサシの視線が動く。アスカとヒサシの視線がぶつかった。以前のアスカだったら、多少のトキメキがあったかもしれない。でも、今は違う。腹立たしさしか感じなかった。

「全てを手に入れるのは無理じゃない?」
アスカは半ば投げやりに言った。
「欲しいモノが全部手に入るなんて、その年なら無理なことくらいわかるでしょう?」
アスカの言葉にヒサシも溜め息をついた。
「手に入れられてきたんだ。別れさせ屋に依頼さえされなければ、手に入れたまま、過ごせたかもしれない」
「時間の問題よ。遅かれ早かれ、あなたは失っていたわ」
「そうかな? 失わずにいられたかもしれない」
「可能性の話をするにしては、現実離れしすぎてると思うけど」
アスカの言葉で再び沈黙が落ちた。
いつまでこんな生産性のない話をし続けなければならないのだろう。もうこの店に来て、随分と時間が経っている。
ふっとアスカは視線を店内に入って来たカップルに移した。その途端、一気に血の気が引いた。
アスカの視線の先には楽しそうに笑うマキコとその不倫相手であろう男性が手を繋いでいたのだ。
まずい、と思い、視線をテーブルへと戻す。ヒサシが気が付きさえしなければ、なんの問題もない。心臓の音が次第に速くなるのをぐっと堪えながら、アスカは奥歯を噛んだ。

沈黙は落ちたまま、ヒサシもレナも視線をテーブルの上に彷徨わせていた。隣にいるユウキの顔までは見えない。
アスカはさっさとマキコとその不倫相手が出来るだけ自分たちのいる席から遠くの席に座り、こちらに気が付かないでいてくれることを願った。
アスカの視線が動いて、レナやヒサシが気が付かないように、じっと前を見据える。
しかし、アスカの願いも空しく、ヒサシは視線を動かし、そして、呆気にとられたような表情を浮かべた。
ああ、見つけてしまったか……、アスカは思い、溜め息をつく。
ヒサシの顔が見る見るうちに青ざめていった。
自分が浮気をしているというのに、妻の浮気を見たら青ざめるなんて、随分と身勝手だな、とアスカは思う。けれど、同時に気の毒でもあった。
アスカはヒサシの異変に気が付かない振りをして、もう冷めてしまった紅茶に口をつけた。
ヒサシの様子に気が付いて、レナとユウキもヒサシの視線の先に目を遣った。そこにはマキコとその不倫相手が仲睦まじく、手を繋ぎ、楽しそうに会話している姿があった。レナとユウキはなぜヒサシがじっと見据えているのか、最初はわからなかったが、すぐに理解した。あれはヒサシの奥さんだ――。

アスカはヒサシが話し出すまで、何も言わないでおくことにした。レナと別れさせる為に依頼してきたのはあくまでユウキということになっている。今、アスカが変なフォローを入れてしまったら、マキコが依頼者である、と勘の良いヒサシなら勘付く可能性がある。
そんなアスカの考えを見抜いたのか、ユウキがヒサシを見て言った。
「どうかなさいましたか?」
「い、いや……」
明らかに動揺しているヒサシを横目にユウキは続ける。
「レナと別れてくれる気になりましたか?」
「……」
ユウキはヒサシが動揺している隙に、別れると言わせようとしているのだということにアスカはすぐに気が付いた。けれど、こんなことくらいで、ヒサシは首を縦には振らないだろう。
ヒサシはもう一度、マキコたちの方に視線を向ける。アスカも不自然にならないように、マキコの方へと視線を向けた。マキコはまだ不倫相手と楽しそうに話している。まだ。ウェイトレスに席へ案内されていないようだった。

不意にマキコの視線がアスカたちの方へと向いた。そして、あっという間にマキコの顔色が変わる――と思った。けれど、マキコは表情一つ変えることなく、再び、不倫相手の方を向き、笑顔を振りまいている。
ヒサシよりマキコの方が何枚も上手だ。アスカはさっきよりも気の毒に思いながら、ヒサシを見た。
ヒサシはアスカをじっと見る。もしかしたら、依頼者がマキコだとバレてしまったのかもしれない。緊張が走った。
「浮気って、されるとこんなにも心が痛いものなんですね」
ヒサシはその一言を言い残し、行ってしまった。

「あれは別れる、と捉えていいんでしょうか……?」
ヒサシが喫茶店を出て行った後、遠慮がちにレナは言った。
「いいんじゃないかしら。不倫される側の気持ちが漸くわかったのよ」
アスカは不安そうにしているレナににっこりと微笑む。
「これでやっと終わりか……」
ユウキは大きな溜め息をついて、天井を仰いだ。
「でも、さっきのは……」
「ああ、あれは奥さんが不倫相手とそこにいたから……」
「やっぱり……」
レナとユウキの口からは同じ言葉が同じタイミングで零れた。

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小説「サークル○サークル」01-401~01-410「加速」まとめ読み

「今日、あなたをお呼びしたのは、彼がレナさんと別れるにあたり、あなたと話をしたいとおっしゃったからなんです」
アスカはヒサシとレナ、ユウキを交互に見ながら言った。
レナは申し訳なさそうに俯いていたけれど、ヒサシは堂々とユウキを見据えていた。
一体、ヒサシはユウキに何を言うつもりなのだろう、とアスカは不思議に思いながら続けた。
「知っているでしょうけど、レナさんはこちらにいるヒサシさんと不倫関係にあります。私はあなたの依頼によって、このお二人を別れさせることになりました。しかし、見ておわかりになるでしょうが、ヒサシさんはその事実をご存じです。そして、レナさんと別れるにあたり、あなたとお話されることを望まれました。あなたとお話をすれば、レナさんとは別れてくれるそうです」
アスカは一息に話した。
ユウキにはすでに依頼者の振りをしてもらえるように以前お願いはしている。
あとはヒサシにバレないように依頼者の振りをしてもらえば丸く収まる。

「そうですか……。僕と何をお話になりたいんですか?」
ユウキはいつものように“俺”とは言わずに、丁寧に“僕”と言った。その姿勢からは緊張が溢れている。アスカはドキドキしながら、隣に座るユウキを見ていた。彼がもし感情的になってしまったら、今回の計画は全て失敗に終わる。アスカもユウキ同様、緊張していた。
「何を……そうですね。どうして、私と彼女を別れさせたいのか、という理由からまず聞きましょうか」
大人の余裕なのか、はたまた依頼をしていることを知っているという余裕なのか、ヒサシはいつもとは少し違うゆったりとした口調で喋った。
アスカはヒサシの違いにドキリとする。その驚きと緊張がヒサシにバレないようにアスカは神妙な顔つきで静かに二人の話に耳を傾けていた。
ユウキは小さく深呼吸をする。息の漏れる音がアスカの耳に届き、アスカの緊張は更に高まった。こういう時、自分がどんと構えていなければ、と思うのに、緊張してしまうのだから困ったものだ。

自分が何かをするのなら、緊張を通り越し、腹をくくることが出来る。けれど、誰かの緊張を伴うシーンを見るのは、なかなか安心することが出来ないものだ。
アスカはそんな緊張に気付かれないようにじっとヒサシのことを見た。ユウキを見ているより、ヒサシを見ている方がいくらか心が落ち着いた。それはきっとヒサシの佇まいが落ち着いているからだろう。
「不倫は幸せになれないからです」
ユウキははっきりとした口調で言った。あまりにもはっきりと言ったので、アスカは思わずユウキを見てしまった。
ユウキの言葉にヒサシは黙っている。表情一つ変わってもいない。
ユウキはきっとそんなヒサシを見て、不安を覚えていることだろう。
アスカは黙ったまま、次の展開を待った。
ほんの少しの沈黙の後、ヒサシはテーブルに視線を落とした。
「不倫は幸せになれない、か」
ヒサシはそれだけぽつりとつぶやくと、コーヒーに口をつける。
「不倫が幸せか不幸せかは、個人差があるとは思いませんか」
ヒサシの言葉にユウキが動揺するのがアスカには手に取るようにわかった。

「個人差ですか?」
ユウキはヒサシの言っている言葉の意味が理解出来ないと言いたげに同じ言葉を口にする。
「そうです。不倫は時に幸せでもあり、不幸せでもあるのではないか、と私は思っています。たとえば、不倫をしている当事者同士でも幸せだと感じている人もいれば、不幸せだと感じている人もいるでしょう。好きな人と一緒にいられて幸せだ、と思っている人もいれば、どうしてこんな関係を持ってしまったのだろう、と不幸せに思っている人もいるかもしれません」
ユウキはただひたすらヒサシの言葉を黙って聞いている。アスカは気を紛らわせるようにカップに口をつけた。レナもそれに合わせたようにカップを手にした。
「パートナーに不倫をされている当事者――今回だと私の妻の立場です。その人にとっても、幸せな場合と不幸せな場合があると思います」
「不倫をされているのだとしたら、不幸せしかないのでは?」
ユウキは納得がいかない、と言いそうにヒサシを見た。
アスカはそんなユウキの態度に不安を募らせる。
相手はヒサシだ。感情の起伏を見せるのは、最低限にしていた方がいい。
ヒサシは感情的になるユウキを見ながら、淡々と続けた。
「夫婦関係が冷めきっていて、離婚をしたいと思っているけれど、離婚を出来ずにいるのなら、相手が不倫をしてくれることは幸せなことだと思いますよ。夫婦間に特に大きな問題もないのにただ冷めきっているだけでは、相手に離婚を拒否されれば、離婚すること自体が難しいでしょう。世間体もありますしね。裁判になったとしても、離婚出来る確率はとても低い。でも、相手が不倫してさえくれれば、あっさりと離婚出来る上に慰謝料までもらえるんですから」
「でも、大抵の場合、不幸せでしょう?」
「大抵の場合は、というより、バレた場合は、では?」
ヒサシの言葉にユウキはぐうの音も出ないようだった。
「バレなければなかったことと同じ、という言葉はあなたも聞いたことがあるでしょう。不倫されている立場で不倫を不幸せだと感じるのは、不倫されているという事実を知ってしまった、その時だけだと私は思います」
ヒサシの言葉には妙な説得力があった。

ヒサシの言葉には一理あるな、とアスカは思った。本人が不幸せを感じる時は、“不倫を知ってしまった時”だ。知らなければ確かになかったことと同じだろう。けれど、アスカはこうも考える。パートナーに裏切られた時点で目に見えない不幸は始まっているのだ。目に見えない不幸は、生活の端々に顔を覗かせ、やがて余計なひずみを生む。そのひずみに気が付かない程、人間はバカじゃない。
「現段階では誰も不幸せになってないと私は思いますけど、いかがですか?」
ヒサシは静かにユウキに言った。
「……間違えてますよ、あなた」
「何をですか?」
ユウキの言葉にヒサシは眉間に皺を寄せる。何をふざけたことを言い出そうとしているのだ、と言いたげだった。
「誰も不幸せになっていないって、本気で思っているんですか?」
ユウキはヒサシを睨みつけるように見た。
アスカはユウキが何を言い出そうとしているのかわからず、ヒヤヒヤしていたが、彼の次の言葉を黙って待っていた。

「レナは不幸せになっていますよ」
ユウキの言葉にヒサシの眉が片方だけ上がったように見えた。
「どうして、あなたがそんなことを言い切れるんですか? 彼女に聞いたとでも?」
「聞かなくてもわかります。僕は彼女と子どもの時からの付き合いなんです。彼女を見ていれば、今が幸せなのか、不幸せなのか、わかりますよ」
ヒサシはユウキの言葉を鼻で笑った。
「本人に聞きもしないで、幸せか不幸せかわかる? なんの為に言葉があると思ってるんですか? 言葉で確認しないことには真実はわからないでしょう」
「時として、言葉が嘘をつくことをあなたは知らないんですね」
「……」
ユウキの言葉にヒサシは口を閉ざした。
まさか、ユウキからそんな言葉が飛び出すとは思っていなかったのだろう。
「きっとレナはあなたに“幸せか?”と訊かれたら、幸せだと答えるでしょう。恋人に幸せか? と訊かれて、不幸せだと答えるほど、彼女は無神経ではないですから」
アスカはユウキの饒舌さにただただ感心するばかりだった。

アスカはレナの様子が気になって、ちらりと彼女に視線をやった。
レナは俯いている。何も言葉を発しないのは、ユウキの言っていることが正しいからなのか、間違っているからなのかはわからない。ただ一つ言えることは、彼女にとって、今、この空間は居心地が悪いであろう、ということだった。
アスカも敢えて、ヒサシとユウキの会話に口を挟まない。
彼ら二人で気の済むまで話をすればいいのだ。心にモヤモヤが残ったままでは、お互いの為に良くない。モヤモヤした気持ちはいずれ心に滞留し続け、歪んだ方向に爆発する可能性だってある。後腐れないのが一番良い。その為には言いたいことを言わせる必要があった。
沈黙したまま、誰も言葉を発しない。
ユウキは言いたいことを言ったし、ヒサシはなんて言葉を返せばいいのか思案しているようだった。
ヒサシはきっとレナに事実を確認したいだろう。けれど、ここでレナに幸せだと言われたところで、レナに無理やり言わせている感は拭えない。

「仮にレナが不幸せだったとしましょう。では、どうして、不倫を続けたと思いますか?」
「それは……」
ヒサシの言葉に今度はユウキが黙る番だった。
レナは俯いたまま、二人の話を聞いている。
自分の所為でいがみ合わなくてはいい二人がいがみ合っているのだ。そんな光景を見るのは、心苦しいだろうし、今にも逃げ出したい気分だろう。
そう思いながら、アスカはレナを見つめていた。
こんな若さで、こんな思いをする必要性は彼女にはなかったはずだ。ただ一つ、不倫という道に足を踏み入れさえしなければ、良かっただけの話なのだ。
けれど、彼女は踏み入れてしまった。それは自業自得だけれど、なんだかちょっぴり可哀想にも思う。きっと彼女が以前口にしていたヒサシの奥さんへの謝罪の言葉の所為だろう。。
「それは……」
ユウキはしばし考えた後、言葉を選びながら口を開く。
「それは、あなたのことが好きだからではないでしょうか」
ユウキにとって、レナがヒサシのことを好きだと認めるような発言はしたくなかったに違いない。
もしかしたら、ヒサシはわざと“レナが誰を好きか”ということをユウキに言わせるように仕向けているのかもしれない。ユウキが傷つき、動揺するのを狙っていることも十分考えられる。ヒサシは策士だ。頭が切れる。アスカはユウキが暴走しないことをただただ祈るばかりだった。
「だとしたら、問題ないのではないでしょうか? 好きな人と一緒にいたい、その想いを叶えられるんですよ?」
「それが不倫という形でなければ良いことだと思います。幸せなことでしょう。けれど、不倫であれば、一緒にいることで幸せだったとしても、別の感情も一緒に沸くとは思いませんか?」
「別の感情とは?」
「罪悪感や悲しみ、嫉妬……様々な不安を誘因する感情です」
ユウキの言葉をヒサシはふっと鼻で笑った。なぜ鼻で笑われたのか、ユウキはわからないようで眉間に皺を寄せる。
「失礼。それは、恋愛をしていたら、どんな人でも持つ感情ではありませんか?」
「……」
ヒサシの言うことはもっともだ。思わず、ユウキは言葉を失った。

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小説「サークル○サークル」01-391~01-400「加速」まとめ読み

こんな当たり前の夫婦の朝をシンゴは幸せだと感じていた。
少し前まではこんな光景は想像すら出来なかった。
ターゲットはレナと別れることを渋っているようだけれど、しっかり別れてもらわなければいけない、と思う。そうでなければ、今の幸せは消えてしまうからだ。
男として自信があればいいけれど、シンゴには男としての自信は皆無と言ってもいい。それくらい、男としての自分に自信がなかった。
ヨーグルトを食べながら、シンゴはふと手を止めた。
「仕事、上手くいきそう?」
「上手くいかせるわ。シンゴにも考えてもらったもの」
「うん、頑張って」
「ありがとう。レナの幼馴染にも協力してもらえることになったし、あとはターゲットの出方を見るだけ」
「そうだね。健闘を祈るよ」
シンゴの言葉にアスカは力強く頷いた。

アスカは食事の後、身支度を整えると、事務所へと向かった。
シンゴはアスカを見送って、大きな溜め息をつく。
男として自信があれば、きっとこんなもやもやした気持ちを抱かずに済むのだろう。
シンゴはもう一度溜め息をつくと、書斎へと入っていった。

シンゴが書斎に行き、メールを確認すると、担当編集者である元妻からメールが来ていた。
開封すると、“確認しました。大筋はいいと思います。詳細については、ゲラをお送りするのでご確認下さい”と書かれてあった。
大筋に問題がないということは、内容に関して大きな修正がないということだ。シンゴはほっと胸を撫で下ろす。
自分の書く作品にはいつだって、不安はつきものだ。
自分が面白いと思ったって、それを最初に読む編集者が面白いと感じるかどうかはわからない。ましてや、今回はプロットの提出もなかったのだから、尚更不安だった。
シンゴはメールの返信を終えると、伸びをした。椅子が軋む。
これで当分はゲラチェックに時間をかけることになるだろう。
アスカにも良い報告が出来ることにも、シンゴはほっとしていた。
さて、とシンゴは思う。
新作のプロットを書く為にシンゴは再びパソコンに向かった。
今度はどんな話にしようか、と思いを巡らせる。
純愛ものでもいいし、ミステリーでもいい。今なら、どんな話でも書ける気がした。

アスカは事務所に着くと、いつものようにお湯を沸かし始める。煙草に火を点け、脚を組むと机に置かれている書類に目を通し始めた。
他の所員が関わっていた案件が無事終了したということは、電話で連絡を受けて知っていた。その詳細がこの書類には書かれてある。
あとは私の案件が終われば、清々しく年が越せそうね……とアスカは思う。
もう一息で、アスカの関わっている案件は完遂される。けれど、そのあと少しが上手くいくのかどうかがずっとアスカの心の中で引っかかっていた。
やかんがお湯が沸いたことを甲高い音を鳴らして知らせる。アスカは煙草を灰皿に置くと、立ちあがった。
いつものようにやかんから、ポットにお湯を入れる。茶葉が踊るように渦を巻いた。
ぼんやりとポットをを見つめていると、お湯が少しずつ紅茶の色に染まっていく。
アスカはそのまま三分間じっと見つめ続けていた。
その間に彼女が考えていたことは、レナのことでもヒサシのことでも、マキコのことでもなかった。
自分の夫であるシンゴのことだった。

この案件が終わったら、シンゴと旅行でもしようかな、とアスカは思っていた。
正直、今回の案件で心も身体も疲れ切ってしまっていたし、少し休みが欲しかった。今までのアスカだったら、1人で旅行したいと思っていただろう。けれど、今のアスカはシンゴと一緒に旅行したいと思っていた。
ここまで自分の心境に変化が起きたことにアスカはもう驚いてはいなかった。
今回の案件を通じて、アスカはシンゴの大切さに気が付いたのだ。
シンゴがいてくれたことで、アスカは今回の案件を乗り切れそうだと思っていたし、ヒサシとの関係を思いとどまれたのも、シンゴの存在があったからだ。
自分の狡猾さや不安定さを目の当たりにして、アスカは自分の夫がシンゴでなければ、誤った選択をしていたのではないか、と思う。
きっかけはシンゴが何かをしてくれたことではない。シンゴがその場にいつもと変わらずいてくれたことだった。
アスカはシンゴの確かな存在感にいつしか安心感を得ていたのだ。

アスカが事務作業を始めて数時間後、アスカの携帯電話が突然鳴った。
ディスプレイに表示されたのはレナの名前だった。
「はい」
「アスカさん、ですか?」
控えめなレナの声が聞こえる。その声はどこか不安そうだった。
「どうしたの?」
「今、彼と一緒にいるんですけど……」
アスカの心臓が一つ高鳴った。
予想外の電話だった。けれど、いつか来るだろう、と思っていた電話でもあった。
時計に目を遣ると、まだ夕方だ。ヒサシは仕事中ではないのだろうか、と思ったけれど、アスカは「何かあったの?」とだけ言った。
「今から、アスカさんに来てもらうことは出来ませんか?」
レナの声はどこか困惑しているように聞こえる。
「わかったわ。今、どこ?」
アスカは詳細を聞き出すことなく、承諾すると、レナが指定してきた場所へ行くことにした。レナが指定してき場所は事務所から数駅離れたカフェだった。
アスカはレナからの電話を切ると、紅茶のカップもそのままでコートを着ると、急いで事務所を後にした。

電車に揺られること約十分。アスカはレナたちの待つカフェのある最寄り駅に着いた。
改札を抜け、改札前にある地図で方向を確認すると、歩き出す。
駅から更に十分近く歩くと、ガラスの扉が印象的なオシャレなカフェがあった。
店名を確認して、ドアを開ける。中は思ったより、広かった。
店員に待ち合わせだということを伝えると、アスカは店内を見回した。入り口付近の他の席と隔離された個室にレナとヒサシがいた。
「お待たせしました」
アスカはそう言うと、二人を交互に見た。
ヒサシは「どうぞ」とアスカに席に座るよう促す。
レナは困り顔でアスカを見ていたが、アスカは表情を変えることなく、バッグを置き、コートを脱ぐと椅子に座った。
おしぼりとお冷を持って来た店員にアールグレイティーを頼むと、座り直して、レナを見た。
「アスカさん、お忙しいところすみません。急にお呼び立てしてしまって……」
「気にしないで。大丈夫よ」
仕事だから――と言いそうになったのをアスカはぐっと飲み込んだ。アスカにとって、これは仕事だけれど、レナにとっては、自分のことに親身になってくれる相手なのだ。それをわかっているアスカは、レナをがっかりさせないように言葉を飲み込み、その代わりに微笑んだ。

「それより、お仕事はいいんですか?」
アスカはヒサシを見て言った。
「俺の心配? 随分と優しいんですね」
ヒサシはアスカをからかうように言う。一瞬、むっとしたがアスカは表情には出さないように努めた。
「仕事は午後休をもらってるんで大丈夫ですよ」
「わざわざ、そこまでして時間を作られるなんて、よっぽど重要なお話なのかしら?」
アスカは慎重に言葉を選びながら言った。
「そうですね……。そうなるかもしれません」
ヒサシが視線を動かしたことによって、アスカは自分の注文したアールグレイティーが来たのだということに気が付いた。
ポットからアールグレイティーを一杯注いで、店員は立ち去った。
アスカはアールグレイティーには手を伸ばさず、ヒサシに再び視線を戻す。
「私をここに呼ばれたということは、何か結論が出たのかしら?」
「そういうことになりますね」
「では、どういった結論になったのか教えていただけますか?」
アスカは平静を装っていたものの、内心ドキドキしっぱなしだった。

「レナとは別れます」
突然、ヒサシが言った。あまりに突然すぎて、アスカは面食らう。
もう少し、前置きがあるものだとばかり思っていた。
「それは良かったです」
“本当に?”という言葉が口をついて出そうだったけれど、発言を覆されたくなかったアスカは直前で肯定の言葉を選んで口にした。
「但し、一つだけ条件があります」
「なんでしょう?」
一体、どんな無理難題を吹っかけられるのだろう、とアスカは覚悟を決めた。
「彼をここに呼んで話をさせて下さい」
「彼とは?」
「依頼者の彼ですよ」
「わかりました」
アスカがあっさり了承したことに、ヒサシは眉を顰めた。
「あなたの仕事の報酬は減るんじゃないんですか? それでも彼をここに呼ぶと?」
「ええ。あなたがレナと別れてくれるなら、仕方がいなわ」
「俺には理解出来ない。どうして、そこまでして、レナの為に一生懸命になれるんですか?」
「これも縁だからかしら」
アスカはそう言って、余裕の笑顔を浮かべて見せた。

アスカがユウキに携帯電話で連絡をすると、ユウキは「すぐに行きます」と答えた。レナが不倫をやめるのだ。彼にとっては、どんなことよりも優先順位が高いだろう。
アスカはユウキが来ることを二人に伝えると、沈黙が落ちた。
別段、この三人が揃ったところで話すこともなかったし、話題があったとしても、会話が弾むことはないだろう。
アスカはただただ時間が過ぎるのを待っていた。ちらりとレナを見ると、緊張の面持ちで目の前のコーヒーカップに視線を落としている。
ヒサシはつまらなさそうに携帯電話をいじっていた。
たった数十分が何時間にも感じられる、というのは、こういうことを言うのだな、とアスカは思いながら、忙しなく働いているウェイトレスを見ていた。
ユウキが来て、当たり障りのない会話をして、そして、この案件は終わる。そうすれば、この案件が始まってから、ずっとアスカの中にあったモヤモヤは消えるのだ。
その所為なのか、アスカはユウキがやって来るのが不安でもあり、楽しみでもあった。

何度目かのドアベルの音に視線を向けると、入口にユウキが立っていた。その肩は小さく上下している。急いでここまで来たことが容易に想像出来た。
ユウキはアスカとレナを見つけると、軽く会釈をして、アスカたちの座る席へとやって来た。
「お待たせしました」
若干、息を切らしながら、ユウキは言った。
「こちらにどうぞ」
アスカはそう言って、自分の隣を指す。ユウキは「ありがとうございます」と言って着席した。
ユウキが入って来たことに気が付いたウェイトレスはおしぼりとお冷を持って来る。ユウキがコーヒー注文すると、ウェイトレスは深々とお辞儀をして立ち去った。
「急にお呼び立てしてしまってごめんなさい」
「いえ、大丈夫です」
アスカの言葉にユウキはしっかりと答えた。その様子から、妙な緊張などはしていないことがわかる。ユウキは覚悟を決めてここに来ているのだろう。
しばらくすると、ウェイトレスがユウキの注文したコーヒーを持って来た。
ウェイトレスが立ち去ったのを見計らって、アスカは口を開いた。

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