小説「サークル○サークル」01-431「加速」~01-432「結末」まとめ読み

「それはミステリーだね」
家に帰るなり、アスカは今日のマキコとのやりとりをシンゴに話した。それを聞いたシンゴは首を傾げながら、言った。
「そうなのよ。理解出来ないわ。自分が不倫していることを認めてしまえば、いいだけの話でしょう?」
「認めたくない何かがあるか、はたまた……」
「何よ? 他にも何か理由があるの?」
「いや、そんなことないと思うんだよな……。突拍子もなさすぎる。きっと、何か他の理由があるんだろうね」
「気になる……」
「でも、もう終わった案件なんだし、アスカが気にすることはないよ」
「そうなんだけど……」
アスカは腑に落ちないようだった。
「さーて、そろそろ、寝ようかな」
「仕事はいいの?」
「もう脱稿したから、大丈夫」
シンゴは微笑むと、寝室に消えていった。

シンゴは寝室のベッドに寝転ぶと、ひんやりとしたシーツの感触にどきりとする。
睡魔がゆっくりと身体を侵食するには、まだ時間がかかりそうだな、とシンゴはその冷たさを感じながら思った。

あれから数日が経ったある日、シンゴはいつもの公園のベンチでユウキとのんびりコンビニのパンとおにぎりを思い思いに食べていた。
「不倫、やめさせられたんだって?」
「はい、お陰様で」
「じゃあ、彼女とは付き合えたの?」
「いや、それが……」
ユウキは言いながら、渋い顔をする。
「不倫をやめるのと、俺と付き合うのは、また別の問題みたいで」
「なるほどね」
適当に相槌を打ち、シンゴは身近に自分を思ってくれる相手がいても、その相手を恋愛対象として見られるかは別問題だよな、と思う。
「でも、諦めませんよ。頑張ります。だって、やっと、彼女は――レナはフリーになったんですから」
「頑張って。他の男に取られないようにね」
冗談交じりに言うシンゴはユウキは「脅かさないで下さいよ~」と笑った。
穏やかな昼下がりだ。
つい最近まで、こんがらがっていた糸がこんなにも綺麗にほどけるなんて思いもしなかったな、とシンゴは思っていた。

「あー、おかえり」
シンゴが帰ると、アスカがシンゴを出迎えた。
「随分、早いんだね」
「今日は特にやらなきゃいけないこともなかったから、たまには家事をしっかりやろうかなって思って」
「ありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないわよ。いつもしてもらってるんだから、たまにはこのくらいしないとね」
アスカの言葉にシンゴは微笑み、ソファに座った。
「あのさ、アスカ」
「何?」
「俺のこと、好き?」
「何言ってるのよ、いきなり」
「真面目に聞いてるんだよ」
キッチンにいるアスカの方を見ずに、シンゴは言う。
シンゴからは、アスカの顔は見えない。一体、彼女がどんな顔をしているのだろう、と思いながら、彼女の言葉を静かに待った。
「好きよ」
アスカは穏やかな口調で言った。
その言葉に照れはあったものの、嘘ではないということは、聞いていて、すぐにわかった。
「良かった」
「私にだけ言わせるつもり?」
アスカの言葉にシンゴは面食らいつつも、「好きだよ」と一言返した。
言葉に出さなければ、何も伝わらない。
言葉にしなかったから、アスカとシンゴの間には、溝が出来てしまったし、こじれていってしまったのだ。
アスカとシンゴは微笑み合う。
そこには確かな絆があった。
「ねぇ、あのカフェでお茶しない?」
アスカに腕を引っ張られ、シンゴは「いいよ」と頷いた。
春の陽射しが暖かい休日の午後、アスカとシンゴは表参道でデートを楽しんでいた。
季節の所為だろうか。キラキラと輝くように木々は葉を茂らせ、時折、吹く風は清々しかった。
そんな状況に幸せを感じながら、シンゴはアスカの隣を歩く。すると、不意にアスカが立ち止まった。
「どうしたの?」
呆然と立ちすくむアスカにシンゴは問う。
「あれ、見て」
アスカが指差したその先には、マキコ――そして、全く同じ顔をした女がもう一人歩いていた。
「あの人、依頼者なの。依頼者が二人いる……」
アスカは驚きながら、シンゴを見る。
「双子ってことだろうね」
シンゴは然して驚く様子もなく、冷静に答えた。
「知ってたの?」
シンゴの受け答えにアスカは驚きながら言う。
「いや、知らないよ。前に言ったでしょ? “突拍子もなさすぎる”って」
「ああ」と言って、アスカは前にシンゴがそこまで口にして、別の理由があるんだろう、と言ったことを思い出していた。
「依頼者が本当にアスカたちに気が付いていなかったとして、考えられる可能性は、双子であるという可能性。同時期に妊娠していれば、お腹は大きくたって、なんの不思議もないし、顔が一緒でもおかしくない」
「じゃあ、前の案件で不倫をしていたのも……」
「それはどちらかわからないよ。過去に不倫してたって、幸せな結婚生活を手に入れる人はいるからね。たとえ、相手の家庭を壊していたとしても」
「不倫ねぇ……」
アスカはぼやくように言葉にする。
別れさせ屋の彼女にとって、不倫は身近なものだった。
不倫があるから、アスカの仕事が成り立っていると言っても過言ではない。
きっとアスカも思うところがあるのだろう。
そんなアスカの横顔を見ながら、シンゴは彼女の手をそっと握った。

小説「サークル○サークル」01-421~01-430「加速」まとめ読み

「あの動揺の仕方はおかしかったですもんね」
「ええ。すごいタイミングよね。自分の奥さんの不倫現場を目撃するなんて。しかも、旦那に気が付いても、奥さんは顔色一つ変えなかったもの」
「だから、余計に傷ついたのかもしれませんね……」
レナは複雑そうに俯いた。まだヒサシに気持ちが残っているのか、それとも、一度は愛した人が傷つくのが辛いのか、はたまた、そのどちらもなのかはわからない。けれど、どちらにせよ、レナとヒサシの不倫は終わったのだ。
「でも、最後まで、不倫相手になる気持ちはわからないままだったんでしょうね」
アスカはレナの寂しげな微笑みが忘れられそうにもなかった。

ユウキとレナと別れて、事務所で簡単な事務処理をすると、アスカは帰宅した。
玄関のドアを開けると、ビーフシチューのいい香りが鼻先をつく。
「ただいま」
「あー、お帰り。今、ちょうど、夕飯作ってるところなんだ。先にお風呂に入っておいでよ」
「ありがとう」
アスカはコートをハンガーにかけ、バスルームへと向かった。

アスカは風呂から上がり、食卓テーブルを挟んで、シンゴと向かい合って座った。
熱々のビーフシチューと温玉サラダ、フランスパンが目の前に置かれている。
赤ワインで乾杯すると、二人は食事を始めた。
「今日は上手くいった?」
シンゴの言葉にアスカは待ってましたとばかりに口を開いた。
「上手くいったの。でもね、すごいハプニングもあったのよ」
「ハプニング?」
シンゴはビーフシチューを口に運ぶ手を止めて、不思議そうな顔をする。
「ターゲットの奥さん――依頼主が偶然、喫茶店に来たの」
「へぇ……。そんなことがあったんだ」
「しかも、奥さんは不倫相手とイチャイチャしながら、入って来たのよ」
「えっ!? それは修羅場になったんじゃ……」
「そう思うでしょ? でも、ターゲットが奥さんに気が付いて、じっと見てたら、奥さんもターゲットの視線に気が付いたのよ。だけどね、奥さんは顔色一つ変えなかったの」
シンゴは驚いたように目を見開いた。やはり、普通は動揺するものなんだな、とアスカは思った。

「それでどうなったの?」
興味津々といったようにシンゴはアスカに続きを促した。
「ターゲットは奥さんに詰め寄ることなく、“浮気って、されるとこんなにも心が痛いものなんですね”って言って、先に一人で出て行っちゃったのよ」
「へぇ……」
シンゴは意外だと言いたげに相槌を打った。
「でも、これでターゲットの方は一段落したし、明日、依頼者に連絡して、成功を報告すれば今回の案件は終了するわ」
「そっか。それは良かったね。お疲れ様」
「うん、ありがとう」
アスカはシンゴの労いに微笑む。
漸く、随分と手を焼いていた仕事が片付くのだ。アスカはほっとしながら、熱々のビーフシチューを口に運んだ。
シンゴの作る、いつも通りの、ビーフシチューの味がした。

翌朝、アスカは事務所に行くと、早速、マキコに連絡を入れた。
結果、報告をしたい旨を伝えると、すぐに来るという返事をもらった。
アスカはどういった流れで、話を持って行こうか、と頭を悩ませていた。

“あなたも浮気していたんですね”とストレートに言うわけにもいかない。けれど、事実関係をはっきりさせておきたいという気持ちもあった。でも、それはアスカの立場で踏み込んでいい領域ではないこともわかっている。
アスカは煙草に火をつけて、気持ちを落ち着かせようとした。一本吸うともやもやは少しおさまった。続けて、二本目に火をつける。二本目を吸い終えても、気持ちが完全に落ち着くことはなかった。
大きく溜め息をついて、天井を見上げる。アスカは机の上に足を上げ、目をつぶった。
自分のしている仕事の意味を考える。誰かを幸せにして、誰かを不幸にする。けれど、それはただ元の状況に戻しているだけだ。
元の形から変形して、不倫という形を選ぶには、きっと何かしらの理由がそこにはある。その理由を半ば無視して、法的に問題があるからと、不倫をやめさせるのだ。
それが正しいのか、と問われれば、正しい、と胸を張って言えない、とアスカは思う。
男と女のことに関しては、絶対という正しさは存在しないのだ。

約束の時間から少し遅れて、マキコがやって来た。
「お待ちしておりました」
アスカはドアを開け、マキコを招き入れる。マキコのお腹は傍から見てもわかるほど膨らんでいた。
「ごめんなさい。遅れてしまって」
然して、悪いと思っていないような言い方で、マキコは言った。
「いえ、大丈夫ですよ。今、紅茶をお淹れしますね」
アスカはつも以上に丁寧な口調で話した。きっとアスカ自身も、今からマキコと対峙しなければならないことに少なからず、緊張しているのだろう。
紅茶はノンカフェインのものを選んだ。妊娠しているというマキコの身体に配慮してのことだった。
お湯を沸かし、茶葉の入ったポットにお湯を注ぐ。きっかり、三分経ったのを見計らって、カップに紅茶を注いだ。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます」
テーブルに置かれた紅茶を見て、マキコは頭を軽く下げる。
「紅茶はノンカフェインのものにしましたから、ご安心下さい」
「はい、ありがとうございます」
マキコは微笑む。この微笑みの下には、一体どんな顔が隠れているんだろう、とアスカは思った。この女がかぶっている猫は一枚や二枚じゃない気がしてならなかった。

「お電話でも少しお話させていただきましたが、今日、こちらに来ていただいたのは、ご依頼いただいた件の結果をご報告をさせていただきたかったからです」
「はい」
マキコはあの日、アスカに不倫相手と一緒のところを目撃されているのに、動揺するとこなく、淡々としている。アスカは深呼吸をして、落ち着きたいのを堪えながら、続けた。
「結果から言いますと、今回のご依頼は無事完遂することが出来ました」
「ありがとうございます」
「正直に申し上げますと、不倫相手の方に私が接触した時点で、ご主人は私が不倫相手とご主人を別れさせる為の別れさせ屋だということにお気付きになられました」
「でも、完遂はされたのでしょう? 結果が全てです。特に過程は重視しません」
マキコからの意外な言葉にアスカは動揺しそうになったが、ギリギリ持ち堪えた。
少し、先が思いやられるな、と思ったが、マキコへの報告はまだ始まったばかりだ。
「そうですか……。そう言っていただけると、こちらとしても、ありがたいです。ですが、一応、別の方からの依頼、という勘違いをご主人がなさっていたので、その勘違いを利用させていただいて、奥様からのご依頼だということはバレずに済みました」

「それなら、なんの問題もありませんね。良かったわ。別れさせてもらえて!」
マキコは満面の笑みで言う。
「今日、残りのお支払い分を持って来たんです」
マキコはバッグを開けると、封筒を取り出した。アスカは大金を持って来たことに驚いた。しかし、対照的にマキコは平然としている。
「お手数かけて申し訳ないのだけど、金額が間違っていないか、確認してくださる?」
「お預かりします」とアスカは言って、札束を数え始める。全て数え終ると、アスカは再び封筒の中に戻した。
「ちょうど頂戴致します」
アスカは笑顔を向けて、封筒をテーブルの自分の手元に近いところに置く。
「これで安心して、子どもが産めるわ」
マキコの言葉にアスカは言葉を選びながら、口を開いた。
「あの……この間、喫茶店にいらっしゃってましたよね?」
「喫茶店? ああ、数日前かしら?」
「そうです」
「それがどうかしましたか?」
マキコは何を言っているのだろう、と不思議そうにアスカのことを見た。

どうかしたかって……とアスカは思う。私が気が付いていないとでも思っているのか、とアスカは言いたくなったが、それをぐっと堪えて、努めてにこやかに微笑んだ。
「ええ、私もあの日、喫茶店にいたんですよ」
「えっ? そうだったのですか? だったら、声をかけてくださればいいのに……」
「ご主人も一緒だったの、お気付きになられませんでしたか?」
マキコはアスカのその言葉を聞いた瞬間、眉間に皺を寄せた。
「主人と喫茶店で? 全然気が付かなかったですけど……」
その言葉に今度はアスカが眉間に皺を寄せた。
彼女はあの場所に不倫相手といながら、しらを切りとおそうとしているのだろうか?
アスカは次に問うべき事柄を考えながら、紅茶に口をつけた。
「その後、ご主人とはいかがですか?」
アスカは意気消沈して、去って行ったヒサシのことを思い出して訊いた。
「最近、元気がありません。きっと、不倫相手と別れたことが堪えているんだと思います」
マキコは悲しそうに俯きながら言った。

アスカの頭に疑問符が浮かぶ。
自分が浮気をしているのだとしたら、こんなに悲しそうな顔を出来るだろうか? 演技にしては上手すぎる、とアスカはマキコの表情を見ながら思った。
「果たして、そうでしょうか」
アスカはヒサシには他にも女がいることを思い出し、口にする。
レナと別れたことは確かにショックだったかもしれないが、不倫相手は他にもいる。もし仮にレナを失ったことでショックを受けているのだとしたら、それは一時的なものに過ぎない。そのうち、ヒサシはけろっとした顔で、他の女に愛を囁くことだろう。
「他に何かショックを受けるようなことは思いつきません」
マキコはきっぱりと言い放つ。どこまでも自分が浮気をしていることはしらを切り続けるつもりだろうか。
それならそれでまわない、とアスカは思った。
アスカがすべきことは、他人の夫婦間の問題に首を突っ込むことではない。別れさせ屋として依頼された案件を解決することだ。それ以上のことは、自分の領域ではない、とアスカは自分に言い聞かせた。

「そうですか。わかりました。きっと一時的なものだと思いますよ」
「だといいんですが……」
「少なくとも、不倫相手の方はもう元に戻ることは望んでいません。むしろ、あなたに申し訳なく思っている、と言っていました」
「……」
マキコが黙ったのを見て、アスカは余計なことを言ってしまったな、と思った。
いくら、不倫相手が奥さんに対して申し訳ないと思ったところで、不倫をしていることには変わりはなく、申し訳なく思うくらいなら、不倫なんてするな、というのが妻の立場からの意見だろう。

全ての話が終わった後、マキコを送り出すと、アスカは大きな溜め息をついた。
アスカに残るのは疑問だ。
マキコはどうしてヒサシに気が付かなかった、なんて言うのだろう。アスカはその場にいた、と話したのだ。それにも関わらず、気が付かなかった、と言うことになんの意味もないはずだ。
アスカは別に弁護士ではない。
アスカにマキコの不倫を知られたからと言って、仮に離婚調停が始まっても何か不都合があるとは思えなかった。

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