小説「サークル○サークル」01-311~01-320「加速」まとめ読み

アスカは久々に朝から事務所でゆっくりと書類に目を通していた。
いつものように煙草をふかし、脚は机の上に乗せ、手を伸ばせば届く位置には紅茶の入ったカップを置いていた。
仕事とはいえ、毎朝、カフェに通うのは正直アスカにとっては疲れることだった。最初のうちは珍しいことに多少はウキウキしたが、そのウキウキもしばらくすれば、退屈に代わる。仕事なのだから、当たり前と言ってしまえば、それまでだったが、その疲労から解放されたことは大きい。
アスカは書類を確認し終えると、くわえていた煙草の灰を灰皿に静かに落とした。そのまま、煙草をカップに持ち替えて、紅茶をゆっくりと飲んだ
久しく、事務所の掃除をしていないな、と思って、床に視線を落とすと、床がキレイになっているのに気が付いた。他の所員が掃除してくれていたのだろう。アルバイトとして雇って数年が経つが、気の利く所員に育ったことを嬉しく思っていた。
最初はどんなことでもいちいち言わなければ、することが出来なかった。これが噂のゆとり教育世代か、とも思ったが、一つずつ丁寧に教えれば、確実にこなしていく。
数年経てば、何も言わなくたって、気が付いたことをしてくれるまでに育つのだ。ゆとり世代だと揶揄されることも多いし、人に寄るのだろうが、育て方次第だな、とアスカはキレイになった床を見ながら思った。

アスカが煙草に手を伸ばそうとした時、アスカのケータイが鳴った。見慣れない番号に一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに通話ボタンを押す。
「はい」
――あの……アスカさんのケータイでしょうか?
「そうですが」
聞き覚えのある声がケータイから聞こえてきた。レナだ、とアスカはすぐに気が付いた。
――あの、レナです。名刺を見て、電話しました。今日の夜、お時間いただけませんか?
今までメールでのやりとりを主にしていたこともあり、アスカはレナの番号を登録していなかったのだ。
「ええ、いいわよ」
――良かった……。
「場所と時間はどこにする?」
――アスカさんのご都合のいいところでお願いします。
「そうね……。それじゃあ……」
そう言って、アスカはレナのアルバイト先の最寄駅を指定した。
――わかりました。よろしくお願いします。
「それじゃあ、またあとで」
――失礼します。
そう言って、レナは電話を切った。
待ち合わせまで、あと二時間。アスカは煙草をふかしながら、自分の格好を見た。事務所で仕事をするには十分だ。けれど、レナと食事に行くには少しダサい。しばし悩んだ後、アスカは一度、着替える為に自宅に戻ることにした。

がちゃりと玄関で音がした気がして、シンゴは書斎から出た。玄関を見ると、明かりが点いていた。アスカが帰って来るにはまだ早い。シンゴは不審に思いながら、恐る恐る玄関の方へと歩いて行った。玄関とリビングを繋ぐドアに手をかけようとした瞬間、ドアが押し開けられた。
「っ……」
シンゴは息を飲み、ドアの向こうの相手を見た。
「びっくりしたぁ……」
アスカはシンゴの予想外の出現に目を丸くする。
「なんだ、アスカか……」
「なんだとは何よ」
「いや、泥棒かと思って……」
「泥棒は電気点けたりしないわよ」
「それもそうだね……」
アスカは胸を撫で下ろしているシンゴをよそに、リビングを通り抜け、寝室へと向かった。しばらく呆然としていたシンゴだが、不思議に思い、アスカの後を追った。
「どうしたの? 何かあった?」
ノックもなしに寝室に入るなり、シンゴはアスカの後ろ姿に向かって言う。
「ちょっと、入って来ないでよ」
アスカは振り向きざまにシンゴを睨んだ。アスカはトップスを脱ぎ、下着姿でワンピースに袖を通そうとしていた。

「ご、ごめん……!」
久々に見る妻の下着姿にシンゴはあたふたとし、寝室のドアをパタリと閉めた。
不意のことだったとは言え、こんなにもドキドキしてしまっている自分にシンゴは驚いていた。
そう言えば、いつからか、アスカとは男女の関係にすらならなくなった。いわゆるセックスレスというヤツだ。いつからだろう、と考えて、シンゴは結婚して、自分が小説を書かなくなった頃からだと気が付いた。
ああ、なんだ。全ての原因は自分にあるのではないか、とシンゴは溜め息をついた。

アスカはワンピースに着替えると、寝室から出て来て、リビングへとやって来た。
「さっきはごめん。まさか、着替えてるとは思わなくて」
「いいわよ。減るもんじゃないし」
だったら、あんなに怖い顔して怒ることないじゃないか、と喉元まで出てきたのを慌てて飲み込んだ。そんなことを言ったって、さっきの怒りをぶり返すだけだということは、長い付き合いでわかっている。こういう時は何も言わないに越したことはない。

「着替えて、どこに行くの? もしかして、男のところとか?」
シンゴは少しおどけて言う。真剣な顔をして言って、重い男だと思われたくなかったのだ。
「バカね。どこの男のとこに行くのよ。レナと食事することになったのよ」
「それで、そんなおめかし?」
「そういうこと」
「さっきの格好でもいいと思うけど……」
そう言うシンゴにアスカはあからさまな溜め息をついた。
「わかってないわね」
「えっ……?」
「男と会う時より、女同士で会う時の方か格好に構わなきゃいけないのよ」
「どうして?」
「どうして……って訊かれると困るけど、そういうものなのよ」
シンゴにはアスカの言っている意味が理解出来なかったが、取り敢えず、それ以上は何も言わなかった。別の質問をしたところで、自分に理解出来るとは思えなかったからだ。
「シンゴは仕事?」
「ああ、さっきまで書いてた。玄関で物音がしたから気になって、書斎から出て来たんだ」
「そうだったんだ。時間になったら、適当に出掛けるから、私のことは気にしないで大丈夫よ」
「ああ、うん」
「あ、そうだ」
「……何?」
「仕事が落ち着いたら、行きたいところがあるんだけど」
アスカの言葉にシンゴは驚いて見る。
「どこに?」
シンゴの問いに答えようとアスカが口を開こうとしたその時、アスカのケータイが鳴った。

「ごめん。もう行くね」
アスカはケータイのディスプレイに視線を落とすと、そう言って、急いで出て行ってしまった。
一体、アスカの行きたい場所とはどこなんだろう? とシンゴは思いながら、ゆっくりと閉まっていく玄関のドアを見つめていた。

アスカは電話にかかってきた声を聞いて、驚いた。
「誰だかわかる?」
その声にアスカは聞き覚えがあった。
――ヒサシだ。
アスカはそう思うと、息が止まりそうだった。
「どうして、この番号を?」
アスカは声をひそめて話した。マンションの廊下は意外に声が響くからだ。
「名刺」声は淡々と言った。
「名刺……?」
鸚鵡返しに問うて、それがどういう意味なのかに気が付いた。
レナだ。レナの持っているアスカの名刺をヒサシは見たのだ。
しかし、それが事実だったとしても、アスカはヒサシが名刺を見た理由を敢えて自分では口にしなかった。場合によっては、カマカケの可能性もあるからだ。
「わからない? いや、君のことだ。ホントのことがわかっていて、黙っているね」
ヒサシは自分より上手かもしれない、とアスカは思った。
「なんのことだか、さっぱり」
「白を切るつもりなのか……。まぁ、いい。取り敢えず、いつものバーで待ってる」
そう言って、電話は切れた。

アスカはケータイを握りしめたまま、溜め息をついた。
やっかいなことになった。
ヒサシが別れさせ屋の自分に気が付いた、ということは、マキコには失敗したことが筒抜けになっているかもしれないし、レナは自分の正体を知ってしまっているかもしれない。
レナからの電話があった直後、ヒサシから電話があるなんて、あまりにもタイムリー過ぎる。もしくは、何か交換条件をつきつけてくるか――。
アスカはレナとの待ち合わせに行きたくない、と思ったが、そうも言っていられない。待ち合わせの時間は迫っていた。もう一度、深い溜め息をつくと、アスカはレナとの待ち合わせ場所に向かった。

アスカが慌ただしく出ていってから、シンゴは再び書斎に戻った。今の自分がしなければならないことは、小説を書くことだ。
この小説をきちんと出版して、再び、作家としての自分を取り戻す必要があった。世間は自分が消えたと思っているかもしれない。けれど、もう一度本を出せば、消えたわけではない、ということを明示することが出来るだろう。
シンゴはひたすらパソコンに向かった。
アスカが浮気をしていない、とわかったことで、心のもやが晴れたのだろうか。今まで以上に原稿は進んだ。

アスカはドキドキしながら、レナを待っていた。こんな嫌な緊張をするのは久々だった。この仕事も長くなり、どこかあぐらをかいてしまっていたのかもしれない。
アスカは帰宅する人たちでごった返す駅の改札前で腕時計に視線を落とした。レナとの待ち合わせまで、あと十分もある。あと十分間もこの緊張感を持ったまま、ここに立ち続けているのかと思うと溜め息が出た。
駅のホームに向かう為、改札を通って行く人たちを見ながら、なんだか羨ましかった。これから二つも仕事をこなさなければならないのだ。アスカはもう一度溜め息をつく。嫌なことから逃げたいという気持ちの溜め息というよりは、自分の気持ちを落ち着かせる為の溜め息のようにも感じられた。
「すみません。お待たせしてしまって」
前から小走りで近づいて来たレナは、アスカの前に着くなり、申し訳なさそうに言った。
「さっき来たばかりだから、大丈夫よ」
実際、本来の待ち合わせ時間にはまだなっていなかった。
「行きましょうか」
アスカはレナに言うと、歩き出した。

中華レストランに向かう途中、レナといろんな話をしたけれど、アスカは上の空でろくに話を聞いていなかった。きちんと会話が成立していたのか、ふと気になる。
「ここ……ですか?」
思わず通り過ぎそうになったアスカの腕を取り、レナは言った。
「う、うん。そう。ここよ」
「ふふっ、アスカさんがぼーっとしてるなんて珍しいですね」
「そうね……。最近、仕事が忙しいからかな」
「お仕事のしすぎはダメですよー? 体調崩しちゃったら、元も子もないですから」
レナは笑顔でアスカを見る。この屈託のない笑顔を見ていると、アスカはレナは何も気が付いていないのだ、と思った。もし何もかも知っていて、こんな笑顔を向けられているのだとしたら、レナのしたたかさは大したものだ。不倫だって、納得がいく。けれど、レナはきっとそんな子じゃない、とアスカは思いたかった。
中華レストランの重いドアを開けると、赤を基調とした店内が見えた。すぐさま、ウェイターがやって来て、人数と喫煙の有無を訊いた。アスカの返答を聞くと、ウェイターは歩き出す。アスカとレナもそれに続いた。
アスカとレナが通されたのは、比較的静かな奥の席だった。席に着こうとした瞬間、視線を感じて、アスカは立ち止まる。すると、一人の男がこちらをじっと見据えていた。

「ユウキ……」
レナは目を大きく見開いて、ぽつりとつぶやいた。
「知り合い?」
「はい……。幼馴染で……」
しかし、その様子は明らかにただの幼馴染という感じではなかった。アスカはレナとユウキの顔を交互に見る。二人とも言葉を発しない。
視線を先に反らしたのは、レナの方だった。
「ごめんなさい。座りましょう」
レナに言われて、アスカは黙ったまま、頷くと席に着いた。
「いいの? 挨拶しなくて」
アスカに言われて、レナは左右に頭を振った。
「いいんです。関係ありませんから」
「……」
関係ないと言うわりには、随分動揺していたように見えたけれど、アスカは敢えて、その話題には触れなかった。
レナの幼馴染とは少し離れた席に着いた為、こちらの会話が聞こえることはないだろう。けれど、やはり、レナは視線が気になるようで、たまに幼馴染の方をちらちらと見ていた。
アスカとレナは思い思いに注文をして、シェアすることにした。料理が運ばれてくる前に飲み物がすぐに運ばれて来た。二人の注文したのは、ビールだった。

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