小説「サークル○サークル」01-121~01-130「加速」まとめ読み

時計を見ると、そろそろバーに向かわなければならない時間だった。憂鬱な気持ちのまま、アスカは身支度を整える。今日はラストまでいる日だった。事前にシンゴには食事はいらないと言って出てきている。帰ってから食べることも考えはしたが、夜中に食事をして、そのまま眠ってしまうのは太る為の儀式でしかない。体型維持の為にも休憩中に軽くすませるつもりでいた。

バーには人がまばらにいるだけだった。時間も深まっていき、日付が変わろうとしていた。今日はまだヒサシが来ていない。この時間になっても来ないということは、今日はもう来ないのだろう。そう思って、諦めていた時にドアが開いた。期待に胸を膨らませて、ドアを見ると、少し疲れた顔をしたヒサシが入ってくるところだった。眼鏡の奥の瞳は床を見つめている。ヒサシがふと顔を上げるのと同時にアスカはヒサシと目が合った。
ヒサシは疲れを感じさせないように笑顔をアスカに向ける。それだけで、アスカの胸は高鳴った。これが恋でなければ、なんだというのだろう。アスカはカウンターに近づいて来るヒサシにとびきりの笑顔を向けていた。

「いらっしゃいませ。もう今日は来られないのかと思っていました」
アスカは少し頬を紅潮させ、ヒサシを見上げた。そんなアスカを見て、ヒサシは満足げに口元を綻ばせる。
「それは私が来るのが待ち遠しかったって、解釈してもいいのかな?」
言われて、アスカはドキリとした。確かにヒサシの言葉の通りだったが、それを認めてしまってはいけないと思った。ヒサシとの接触はあくまで仕事だ。今の一言を認めることは、仕事ではなく、恋愛感情を認めることになる。勿論、今の一言を仕事として肯定することは出来る。けれど、すでに仕事ではなく、恋愛としてヒサシとの関係を築きかけているアスカにとっては、そのような肯定の仕方が一番難しかった。
アスカはヒサシから視線を外し、躊躇いがちに口を開いた。
「えぇ」
一瞬の間に計算し、答えを見つけ、アスカは返事をする。その答えには仕事以外の意味合いも含まれていた。
「それは嬉しいね」
「何になさいますか?」
「いつもので」
アスカはいつものようにオーダーを取ると、マスターに告げた。マスターから渡されたバーボンをヒサシの元へと運ぶ手が微かに震えている。アスカはそんな自分に内心苦笑した。今更、恋くらいで緊張してしまうなんて、馬鹿みたいだと思った。

「お待たせ致しました」
アスカが平静を装って、ヒサシの前にバーボンを置こうとした瞬間、ヒサシがアスカの手を握った。
「えっ……」
驚いて、アスカはヒサシの顔を見る。ヒサシは笑顔を絶やさず、そのままじっとアスカを見つめた。
「そろそろ、私の相手をしてくれてもいいんじゃないかな?」
ヒサシは余裕の笑みを浮かべ、アスカを見ていた。その笑顔を見て、彼女はヒサシに全て見透かされていることに気が付いた。
「なんのことでしょうか?」
しかし、アスカも怯まず、笑顔で返す。この程度のことで怯んでいては、別れさせ屋の所長など務まらない。自分に言い聞かせるように、アスカは心の中で何度も大丈夫と唱えて、しっかりとヒサシの目を見据えた。
「駆け引きはやめにしない? 私は君に惹かれている。そして、君も私に惹かれている。違うかな?」
「……」
アスカは何も言い返すことが出来なかった。気の利いた台詞も突き放す言葉も何も思い浮かばなかったのだ。ただ黙って、ヒサシの目を見た。今ここでそらしてしまっては、相手の思うツボだ。毅然とした態度を取らなければ、完全に相手のペースに持って行かれる。それだけは避けたかった。

「何をそんなに怖がっているの?」
「怖がってなんかいません」
「それは嘘だ。君は私に惹かれながら、けれど、それを否定しようとしている。それはなぜか……。私の素性がよくわからないからかな?」
「……」
アスカは敢えて答えない。素性は全て知っていた。誰と結婚し、どんな会社に勤めているのか。ここのバーで働くようになってから、ヒサシがどれほど沢山の女を抱いているのか。わかっていても、ヒサシに惹かれているのだと思って、アスカは泣きたくなった。馬鹿にも程がある。
「何も不安に思うことはないよ。だって、私と君は同じだろう?」
何を言っているのかわからず、アスカは眉間に皺を寄せた。
「何を言っているのか、わからないって顔だね」
「えぇ……」
「お互い既婚者ってことさ」
「!」
アスカは今度ばかりは心底驚き、一瞬頭の中が真っ白になった。どうして、ヒサシは気が付いたのだろうか。アスカは仕事柄、結婚指輪もしていなかったし、一度だって結婚しているなんて話はしなかった。
「どうして、わかったのか……。不思議かな?」
ヒサシの微笑みがアスカを追い詰めていく。

すぐさま、ヒサシの言葉を否定しようと思ったが、ヒサシの確信に満ちた態度にアスカは否定するのをやめた。ここで余計なことを口にすれば、マキコから依頼されていることがバレる可能性がある。それよりも、ヒサシが握っている情報を全て聞き出す方が先だ。
「どうして、そうお思いに?」
「簡単なことさ。私と同じ匂いがする」
ヒサシの余裕の表情にアスカは言葉を思いつけずにいる。抽象的な言葉は肝心なことを何も示さない。アスカはヒサシが何を知っているのかを聞き出そうと思考を巡らしてはみるものの、有効な質問を思いつけなかった。
「どうしたの? 難しい顔をして、黙って。キレイな顔が台無しだよ」
嘘つき、とアスカは内心思う。自分が美人ではないことをアスカが一番知っている。過小評価ではない。事実として、アスカはそれを受け入れていた。ヒサシの妻であるマキコは美人だ。あれだけの美人を毎日見ていて、よく自分を美人と言えるな、とアスカはヒサシのしたたかさに嫌悪する。

「心にもないことは言わない方が身の為ですよ」
アスカは口からつい出た台詞にはっとする。これではまるでヒサシの妻がマキコであることを知っているみたいではないか。
「謙遜は良くないな。私は思ったまでを言っただけだよ」
ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つ。
「そうでしょうか。私にはお世辞にしか聞こえません」
アスカはぴしゃりと言う。しかし、ヒサシはアスカの視線に動揺する気配もない。
「お世辞なんて言わないよ。……今日の夜は空いてる?」
お互いが既婚者だとわかっていながら、堂々と誘ってくるあたり、ヒサシはアスカが思っている以上に女に慣れている。ここで引き下がるのは簡単だが、誘いに乗らなければ始まらない。別れさせ屋として状況を把握する為に、普段なら誘いに乗って、根掘り葉掘り情報を聞き出すけれど、今回は少し勝手が違った。アスカは確実にヒサシに思いを寄せている。この状況でヒサシの誘いに乗ってしまえば、ミイラ取りがミイラになる可能性は高い。誘いに乗る怖さがアスカを躊躇させていた。

ヒサシと不倫相手を別れさせる為の方法は、ヒサシにアプローチをかける以外にも用意している。そちらの方法を取ればいいだけ、とは思うものの、ヒサシへのアプローチが上手くいっている以上、別れさせ屋として、こちらの方法を優先すべきだという気持ちもあった。
「黙っているということは、イエスととってもいいのかな?」
ヒサシは眼鏡の奥のその大きな目でアスカを見上げた。
「それは……」
はっきりとノーとは言えない自分に苛立ちが募る。アスカはヒサシの視線を遮るように床に視線を落とした。
「今日は閉店まで?」
「……はい」
「ふーん……そっか」
ヒサシはそれきり何も言わなかった。アスカは不安を募らせながらも、どこか期待している自分に溜め息を零した。

バーでの仕事が終わり、アスカは裏口から出て、駅の方向へと歩き出す。タクシー乗り場へ向かう為だ。
「お疲れ様」
声がした方に視線を向けば、そこにはヒサシが立っていた。閉店からすでに三十分が経っていた。

「どうして……」
「私がここで待っていることは予想済みだと思うけど」
「そんなこと……」
「まぁ、いいよ。こんなところで立ち話もなんたがら、飲み直しに行こう」
「でも……」
「でも? 拒否する理由があるとは思えないけど」
「十分あると思います」
「たとえば?」
「お互い既婚者です」
「やっぱり、そうだったんだ」
「えっ?」
ヒサシの言葉にアスカは間抜けな声を出す。
「君が既婚者かどうか、ホントは知らなかったんだ」
「それじゃあ、引っかけたってこと?」
「引っかけただなんて、人聞きが悪い。確かめただけだ」
ヒサシの言葉にアスカはあからさまに嫌そうな顔をすると、
「もう遅いんで、それじゃあ」
とその場を立ち去ろうとした。けれど、ヒサシがそれを許さない。ヒサシはアスカの腕をぎゅっと握ると、そのまま抱き寄せた。鼓動が一つ大きく跳ねる。アスカはそんな自分に嫌気がさした。
「抵抗しないんだね」
ヒサシの挑発するような言葉にアスカはその手を振りほどこうとする。
「離して下さい」
「どうして?」
「どうしてって、わからないんですか!?」
「もっと私を好きになってしまうから?」
ヒサシに言われ、アスカは自分の体温が急激に上がるのを感じていた。

「そういうわけじゃ……」
「いい加減、素直になれよ」
そう言うと、ヒサシはアスカを抱き寄せた。突然の出来事にアスカは一瞬呼吸をするのを忘れた。
「……ずっとこうしたかった」
アスカはヒサシの言葉に胸の奥はぎゅっと鷲づかみにされたような錯覚に陥る。こんなセリフ、随分と聞いていない。少なくとも、シンゴはこんなことを言ってくれたことなどなかった。
「今日は一緒にいてくれるよね?」
ヒサシの言葉に頷こうとしたけれど、あと一歩のところでアスカは思い止まった。相手ターゲットだ。ここでアスカがヒサシと一晩を共にしてしまったら、契約不履行だ。
「それは出来ません」
「旦那に後ろめたいから?」
「……はい」
そういうわけじゃない、と思ったものの、それは口には出さなかった。
アスカはヒサシの腕から逃れると、ヒサシの方を一度も見ずにその場を去った。
――そして、その一部始終を見ている人影が一つ。
そっと胸を撫で下ろしていたのは、二人のやりとりをずっと見ていたシンゴだった。

シンゴはアスカにもヒサシにも気が付かれないように、自転車に乗ると、大急ぎで家へと戻った。
近道を最大限に活かして自転車を飛ばした。
アスカが駅まで歩く時間とタクシーで通れる道から導き出した時間を考慮すると、どうにかシンゴの方が早く家に着ける程度だった。
北風が吹く寒い夜なのに、帰ってきたら汗だくになっていたけれど、仕方がない。
こうでもしなければ、アスカの後をつけることは出来ないのだ。
シンゴがアスカを尾行しているのには、きちんとした理由があった。
小説を書く為だ。
小説を完成させる為にアスカがどんな風に仕事をしているのかを知りたかったのだ。しかし、無論、理由はそれだけではない。
アスカの素行が知りたかったのだ。尾行するなんて、お世辞にも褒められることではないことはシンゴだってわかっている。けれど、そこまでさせる程、シンゴは追い詰められていた。
アスカが浮気をするのではないか、と思う度にいつも憂鬱な気持ちがシンゴにのしかかっていた。その結果として、もやもやとする気持ちはお腹の底に滞留した。けれど、それをアスカにぶつけることは出来ない。かと言って、他の誰かに言うことも出来ない。
もやもやは溜まる一方で、出口を見つけられずに、シンゴは随分と苦しんだ。苦しんだ結果の尾行だった。
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