小説「サークル○サークル」01-91~01-100「加速」まとめ読み

加速していく思いはいつだって、自分ではどうすることも出来ない。それをアスカは今までのいくつもの経験から知っていた。恋はいつだって、恋する自分を振り回す。それに抗える程、アスカはまだ年老いてはいなかった。
会えない時間もついヒサシのことを考えてしまう。まだヒサシの唇の感触を覚えている。自分にはシンゴがいるけれど、シンゴとはもう随分と恋人のような関係ではなくなっていた。だから、余計にヒサシとのことが頭から離れないのかもしれない。得も言われぬ背徳感にただただアスカは、翻弄されているだけだった。
事務所の窓からは暖かな陽射しが差し込み、アスカは一瞬目を細める。机の上にいつものように足をあげ、煙草の煙をくゆらすと、天井を見上げた。しばらく経って、アスカは肺いっぱいに煙草の煙を吸い込んで、一息に吐き出した。自分のしている行動の意味の無さに沸々と可笑しさが込み上げてくる。
アスカが吹き出しそうになった瞬間、ドアが開いた。
慌てて、アスカは机から足を下ろし、煙草を灰皿に押しつけると、姿勢を正して椅子ごとドアの方を向いた。
「ご無沙汰しております」
そこに立っていたのは少し膨らんだお腹が印象的なマキコだった。
「どうぞ、こちらに」
アスカは気まずそうに俯いているマキコに言った。
マキコは言われるがまま、ソファへと腰をかける。アスカは紅茶を淹れる準備を始めていた。お湯を茶葉の入ったポットに注ぎ、アスカはきっかり三分待つと、ティーカップへと注ぐ。もらい物のクッキーを添えて、コーヒーテーブルの上に静かに置いた。
「どうぞ、召し上がって」
アスカはマキコに勧めながら、自分も紅茶に口をつける。マキコはカップの中が赤い色をしていることに少し驚いたような顔をする。それを見たアスカがすかさず、「ルイボスティーよ」と言った。マキコはアスカを上目遣いで見上げ、小さく頷くと、再びカップの中身へと視線を落とした。
「大丈夫よ、ノンカフェインだから。身体にも優しいわ」
アスカの言葉にマキコはほっとした表情を浮かべる。お腹の子どものことが気になっていたのだろう。マキコは紅茶を口にした。
アスカはそんなマキコを見て、ふいにヒサシとのキスが脳裏を過ぎった。アスカは平静を装う為に、もう一度紅茶に口をつけた。

「今日はどういったご用件で?」
アスカは罪悪感を覚えながらも平然と言った。マキコは俯いたまま、静かに口を開き始める。
「実は……調査の継続をお願いしたくて……」
やっぱり、とアスカは内心思った。きっとこうなるだろう、と思っていた。浮気をやめさせたい、という気持ちが途中でなくなるはずがないのだ。マキコは以前、「浮気相手と別れても自分のところには戻ってこない気がする」と言っていた。けれど、シンゴに言わせれば、「女は全て浮気相手になりうる」という心配から、アスカとの接触さえも怖がり、依頼を取り下げることにしたのではないか、ということだった。
シンゴの言うことが正しければ、彼女の中でアスカに対する不安が何らかの形で取り除かれたのか、はたまた、それ以上に浮気相手と別れさせる必要が彼女に出来たのかのどちらかだろう。少なくとも、後者には「子どもが出来た」という明確な理由がある。
「勿論、喜んで引き受けさせていただきます」
アスカは出来る限り自然な笑顔をマキコに向けた。

「バレている気がするんです」
マキコは俯きながら言った。アスカは眉間に皺が寄りそうになるのをぐっと堪えて、涼しい顔をして、それから尋ねた。
「バレている? それは、別れさせ屋に依頼したことが、という意味ですか?」
アスカは問うと同時に今までの自分の行動を振り返っていた。確かに接触はしていたが、だからと言って、自分の正体がヒサシにバレているとは思えなかった。バレていたとしたら、あんなに大胆にヒサシはアスカのことを誘ってきたりしないはずだ。むしろ、距離を置くだろう。これはマキコの思い過ごしだとアスカは思った。
「依頼を取り下げて下さいとお願いしに来る前、実は……主人がやたらあなたの話をしていたんです」
「私の話を?」
シンゴの言っていた通りの展開にアスカは少々面食らう。
「えぇ。行きつけのバーに同い年くらいの女の子が入ったって。頭の回転が速く、会話が楽しいって」
「そうですか……。でも、それがどうして私だと?」
「外見の特徴を聞いた時、あなただと確信しました」
アスカはヒサシが自分の特徴をどんな風に伝えていたかを知りたかったが、それをマキコに訊くのはやめた。いらぬ誤解を与えてしまうのは、別れさせ屋の立場上、良くないことは明白だったからだ。

「でも、ご主人が私のことを話したからって、私のことがバレているとは限らないでしょう?」
「そうかもしれません。でも、やたらにあなたの話を聞かせるんです。それに耐えられなくなって……」
アスカにはマキコの言っている意味が漸く理解出来た。好きな相手から、別の女の話を聞きたくない、というのはよく聞く話だ。多少なら、我慢も出来るだろうが、それが毎晩ともなれば、嫌になってもなんらおかしくはない。それにシンゴが言っていたではないか。「女は全て浮気相手になりうる」と。マキコは口にこそ出しはしないが、そう思っているのだろう。だから、余計にアスカをヒサシから遠ざけたくなったのだ。
「そうですか……。でも、調査を再開したいんですよね?」
アスカの問いにマキコは力強く頷いた。
「はい……。勝手なお願いだとは思いますが、やっぱり、彼と不倫相手を別れさせてほしいんです」
「わかりました。お引き受けしましょう」
アスカは敢えて、調査を継続していたことは告げなかった。
「ところで……」
「なんでしょうか?」
アスカの言葉にマキコは不安げな表情を浮かべる。
「最近、旦那さんは私を含め、女性の話をされますか?」
「いえ……。していませんけど、それが何か?」
「していないのなら、それで構いません」
アスカはそう言って、にっこり微笑んだ。

その夜、バーの仕事がなかったので、アスカは真っ直ぐに帰宅した。
食卓を挟んで向かい合うシンゴはなんだか嬉しそうだ。
「何かいいことでもあったの?」
アスカはパイコー飯に箸を伸ばしながら、シンゴに訊いた。
「だって、今日はアスカの帰宅が早いから」
「それだけ?」
「そうだよ。奥さんが早く帰って来てくれて、一緒に夕飯が食べられるなんて、幸せなことだろ?」
当たり前のように言うシンゴの言葉にアスカは驚いていた。そんなことを彼女は考えたこともなかったのだ。
「それより、アスカ、今日何かあっただろ?」
シンゴに言われ、アスカはドキリとする。その一言で自分の今日の出来事を全て見透かされているような気がした。
「えぇ、ちょっと驚くようなことが」
アスカはパイコー飯を口に運ぶ。癖のある牛肉の味が口の中いっぱいに広がった。美味しいな、と思いながら、アスカは咀嚼する。
「依頼者が事務所に来た、とか?」
「……正解」
「やっぱり」
アスカはシンゴの洞察力に心底驚いていた。作家はこんなにも人のことがわかるのだろうか。アスカ自身も仕事柄、観察力がある方だと思っていたが、ここまで簡単に言い当てられる自信はなかった。

内心、シンゴのことを凄いと思っていたアスカだったが、敢えてそれは口にしなかった。口にすることで、自分の負けを認めてしまうような気がしたからだ。
「それで、どうなったの?」
シンゴはスープをすすりながら問う。
「調査の再開をしてほしいって言われたわ」
「さすがだね。調査を継続していて正解じゃないか」
「そこの読みは当たったみたい。ただ……」
アスカはそこまで言って、言葉を区切った。しかし、思い直して、口にするのはやめた。何でもかんでも話す必要はないと思ったのだ。ヒサシがマキコにアスカの話をしなくなったことの意味を考えれば尚のことだ。夫という立場のシンゴには聞かせるのは、ナンセンスだと思った。
「どうしたの?」
「いいえ、なんでもないわ」
アスカは笑顔で答える。それを見たシンゴは、珍しいアスカの笑顔に違和感を覚えた。そういうことか、と思った。
アスカは後ろめたさに、鼓動が少し速まっていくのを抑えることが出来なかった。

その日の晩、シンゴはなかなか眠れなかった。アスカが口籠った理由はだいたい察しがつく。それを考えると、とうとう来てしまったか、という気持ちになった。勿論、ヒサシとアスカが関係を持ったなどとはさすがに思ってはいなかったが、アスカがヒサシのことを特別に意識し、ヒサシもまた同じ気持ちでいることは安易に想像がついた。でなければ、あの動揺は説明がつかないと思った。
シンゴが寝返りを打つと、隣で寝ているアスカの気配も動いた。こんなに近くにいるのに、気持ちはこんなにも遠い。その事実を目の当たりにして、シンゴは遣る瀬無い気持ちになった。
言葉で伝えることは容易い。けれど、正確に相手に気持ちを届けることは容易ではない。正しく伝わらないのなら、伝える意味はあるのか、問いたくなる。けれども、何もしないでただじっとしているよりは、それが無駄なことに思えても何かした方がいいとも思った。堂々巡りの思考を打ち切るように大きな溜め息をつくと、シンゴは静かに目を閉じた。夜はまだ始まったばかりだった。

あくる朝、アスカを仕事に送り出すと、シンゴはぼーっとする頭のまま、コンビニエンスストアへと向かった。買う物は決めていない。ただ家でじっとしていられなかっただけだった。
「いらっしゃいませ」という明るい声がシンゴの元に届いて、はっとして顔を上げた。二十歳前後の茶髪の青年がこちらを見て、笑顔を向けていた。つられて、シンゴは引きつった笑顔を青年に向ける。適当に雑誌を立ち読みし、弁当を一つ手にしてレジへと向かった。
「いらっしゃいませ」
少年はまた愛想良く言った。
「398円です。お弁当は温めますか?」
「はい」と答えて、シンゴは財布の中の小銭をのぞき込む。キリの良い小銭がありそうだと思って、しばし財布の中とにらめっこしたものの、1円足りずに諦めて、千円札を出した。野口英世に笑われているような気がした。
「ごめん、これで」
シンゴが言うと、少年は「千円お預かりします」と言った。会計を済ませ、つり銭を受け取り、弁当が出来上がるまでレジの横にどこうとした時だった。少年がシンゴの目をしっかりと見据えた。シンゴは思わず息を飲んだ。

「いつも、いらっしゃってますよね」
青年は少し照れたように笑ってシンゴに言った。八重歯がちらりと見える。
「あぁ、そうかな……」
そんなに頻繁に来ているわけではなかったが、青年がシフトに入ってる時にいつも来ていたのかもしれない。まじまじと顔を見たことがなかったシンゴだったが、この時ばかりは顔を上げて、青年の顔をしっかりと見た。少し長めの髪に奥二重の目、笑顔の度に零れる八重歯が印象的だった。
「間違ってたら、申し訳ないんですけど……。作家さんですよね?」
「えっ、どうしてそれを……」
突然の言葉にシンゴは呆気に取られた。こんな時間にふらふらと一人でコンビニエンスストアに来ているからと言って、作家だとは限らない。最近は本だって出してないし、こんなに若い人に作家だと知られているわけがないと思った。
「実はオレの親父があなたの本が好きで、よく読んでたんです。本に写真が載ってたから、もしかしたらそうかなって……」
「ありがとう。でも、最近の僕は全く本を出してないから」
「でも、出ていないだけで書いてはいるんですよね? 刊行ペースは作家によってそれぞれだって、親父から聞いたことがあります」
「あの頃は……ハイペースだったからね」
「えぇ、次から次へと出るので、読むのが大変でした」
青年は嬉しそうに話し続けた。

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