小説「サークル○サークル」01-221~01-230「加速」まとめ読み

アスカは大きな溜め息をつくと、煙草に火をつけた。
煙がたゆたい、煙草の香りが部屋に充満していく。
何度も煙を吐き、煙草が短くなると、アスカは灰皿に押し付けた。
続けて、二本目の煙草に火をつける。同じようにあっという間に煙草は短くなった。
すぐに終わってしまう煙草を見ながら、アスカはふと自分の人生について考える。
別れさせ屋の仕事にはやりがいを感じていたし、楽しいとも思う。この仕事に就けて、本当に良かった、そう言える。けれど、どこかでこの仕事を選ばなかった時のことを考えてしまうのも事実だった。
アスカにはシンゴと結婚する前、恋人がいた。結婚を考えられる相手だった。その恋人は言った。「結婚したら、仕事は辞めて、家庭に入ってほしい」と。
結婚を考えていたはずなのに、その恋人にプロポーズをされ、そう言われた時、アスカは嬉しいという気持ちよりも、どうしよう、という気持ちが大きかった。
彼の出した条件は自分の仕事を否定しているように聞こえたのだ。

確かに恋人はアスカより、数歳上で大手企業に勤めるエリートサラリーマンだったから、彼の収入だけで十分生活していくことは出来たし、彼の仕事の忙しさを考えると、家庭に入り、彼を支えるのが一番良い方法だとも思えた。
けれど、アスカは家庭に入るという、その条件を飲むことが出来なかった。話し合いに話し合いを重ねた結果、見据えている将来が違うという結論から、アスカはその恋人と別れた。
その数年後、アスカはシンゴと出会い、シンゴの猛アタックにとうとう結婚を決めたのだ。自分にはこういうタイプの方がお似合いなのかもしれない、その時はそう思って結婚したが、結婚生活が続くにつれて、うだつのあがらない夫に結婚は間違いだったのかもしれない、と思うことも度々だった。
自分のした選択が良かったのか悪かったのか、アスカには時々わからなくなる。
人生は選択の連続で、その答えが正解かどうかなのかは、死ぬ時にならないとわからない。否、死んでもわからないものなのかもしれない。
けれど、生きていれば、常に自分の判断の正解不正解を気にしてしまう。
少なくとも、アスカはマキコから依頼を受けてから、様々なことを考え、そして、悩んでいた。

アスカは三本目の煙草の火を消すと立ち上がり、コートを着た。レナと約束している時間が迫ってきていたのだ。
事務所を後にすると、アスカは映画館へと向かった。

映画館の前に行くと、すでにレナは映画館に立っていた。
「ごめんなさい。待った?」
アスカの言葉にレナは顔を上げ、首を左右に振った。
「いえ、私もさっき来たところですから」
レナはそう言って、微笑む。
「それなら良かった。中に入りましょうか」
アスカとレナは映画館の中へと足を踏み入れた。

ペアチケットを座席指定のチケットに交換して映画館の中に入ると、ポップコーンを持っている客が幾人か見受けられた。その姿を見て、アスカはレナの働いているカフェでホワイトモカを飲んだだけで、朝から何も食べていないことに気が付いた。
ポップコーンを買えば良かったな、と思いながら、座席に着いた。
ふとレナのことが気になって、ちらりと視線を向けると、少し緊張した面持ちで前を見据えている。アスカもスクリーンに目を遣った。

アスカは映画の話が進むにつれて、憂鬱な気分になった。なぜなら、不倫をしている男女の三角関係のストーリーだったからだ。洋画だったので、なんだか少し遠い世界の物語のような気がしたのがせめてもの救いだった。
アスカはつい浮気をされている妻ではなく、浮気相手に感情移入してしまう。それは自分とその女とを重ね合わせて見てしまっているからだ。
レナを横目で見遣ると、真剣な眼差しをスクリーンに向けているのがわかった。
なんたが当てつけみたいね……とアスカは内心思ったが、映画に夢中になっているレナを見て、まぁ、いいか、という気持ちになった。
映画の中で妻は言う。いかに不倫で低俗で野蛮なのかを。けれど、不倫をしている女は言う。いかに不倫が魅力的でスリリングかを。二人の会話は平行線を辿る。男はそれを遠くから見ているだけだ。
そうだ。男はいつだってずるい。
アスカの気持ちはそこへ辿り着く。一度に二人の女性を愛してしまうのは仕方のないことなのかもしれない。それが男の本能なのだというのならば、女は諦めるしかないのかもしれない。
だからと言って、自分のやっていることを全て正当化しようとするその態度にアスカは次第に腹が立っていた。

本能で浮気をするのだとしても、少しは申し訳なさそうにしてもらいたいのだ。本心でどう思っているかはこの際問わない。少なくとも、自分の目には後悔していたり、反省していたりしているように映るように振る舞ってほしいのだ。
けれど、映画の中の男にはそれがない。
フィクションだとわかっているけれど、アスカは沸々と沸きあがる怒りを抑えることが出来なかった。それはきっと、ヒサシの態度とその男の態度が重なっているからだろう。
よくよく考えると、ヒサシはとんでもない男だ。妻がいながら、レナという愛人を作り、本命の愛人以外にもたくさんの女と簡単に寝てしまう。
なのに、アスカはそんな男に想いを寄せてしまったのだ。愚かだ。自分を心底バカだと思った。
それでも、どこかでまだヒサシを求めてしまっている自分にアスカはうんざりしていた。
レナとヒサシを別れさせるのは、別れさせ屋の仕事としてだったけれど、どこかで自分の為でもあるような気さえしていた。

ヒサシの周りにいる他の女と全て別れさせ、自分だけを見てもらいたい。そんな気持ちがアスカの心の片隅にはあった。
それはしたたかな独占欲だ。そして、別れさせ屋として、他の女と別れさせた後、そのしたたかな独占欲は更に強くなり、マキコとも別れさせたくなるだろう。
愛情と似て非なる独占欲はたちが悪い。アスカは映画を観ながらそう思った。
映画も中盤に差し掛かり、女同士の闘いが熾烈さを増していく。
実際にこういった闘いはあるのだろうけれど、現実には静かな闘いの方が多い。たとえば、別れさせ屋に依頼するとか、探偵に依頼するとかして、自分は直接手を下さないのだ。
直接手を下さないことにより、夫婦関係に表立った亀裂は入らない。気が付けば、夫は自分の元に戻って来て、再び穏やかな生活を何事もなかったように手に入れられる。
でも、それは結局、表向きには、というだけの話だ。波風を立てない解決は、大きく自分から色々なものを奪ったりしないけれど、心の奥底にどす黒い何かを置いて行く。

アスカは自分で映画を選んでおきながら、映画が終わりに近づくにつれて、次第に嫌な気分になっていっていた。最初はレナへの当てつけのように感じていたものの、中盤に差し掛かったあたりから、まるで自分への戒めのような気がしてきたのだ。
久々の映画鑑賞だというのに、映画を楽しむ、という気分にはなれなかった。勿論、アスカは仕事としてレナに接近する為に映画を観ているのだから、楽しむ必要はない。けれど、嫌な気分になる必要性もないのだ。
溜め息が漏れそうになるのを喉元でくっと止めて、アスカは字幕を追った。
映画はクライマックスに近付くにつれて、ハッピーエンドへと向かって行く。
主人公は浮気をされている女なのだから、ハッピーエンドは言うまでもなく、夫が不倫相手と別れて、自分の元へと帰ってくることだ。
けれど、見方を少し変えて、不倫相手の女が主人公だったら、男が妻と別れて自分のところへやって来るのが、ハッピーエンドとなったはずだ。
立場によって、ハッピーエンドは異なる。映画としては、ハッピーエンドという終わり方をしていたけれど、不倫相手の女に感情移入して見ていたアスカは、バッドエンドを迎えたような気分だった。

やがて、映画はエンドロールを迎えた。
エンドロールが終わった後、館内に電気が点く。二、三言葉を交わして、アスカとレナは立ち上がり、映画館を出た。
「誘ってくださって、ありがとうございました」
レナはにこっと微笑むと、頭を下げる。
「いいのよ。ペアの鑑賞券もらっただけだし。こちらこそ、付き合ってくれてありがとう」
「実はずっと仲良くなりたいなって思ってたんです」
レナは少し頬を染め、アスカを窺うように見た。
「私と?」
アスカは半分演技をしながら答える。
「はい。いつもスマートでカッコ良くて、素敵だなぁって思ってて」
レナはものの言い方もしくざの一つ一つも、どれをとっても可愛らしかった。マキコとは真反対のタイプだ。ヒサシがレナに惹かれるのも、少しわかるような気がするな、とアスカは思った。
「この後、時間はある?」
アスカの目的は映画を観た後にあった。食事に誘い、ヒサシとの関係を聞き出すのだ。聞き出した後、数日から数週間でヒサシと別れさせるのがアスカの目標だった。

この後、予定があると言われても、携帯の番号さえ交換してしまえば、こちらのものだ。第一、レナはアスカに好意を持っている。
レナはアスカに再び微笑みを向け、「この後、大丈夫です」と答えた。
アスカはほっと胸を撫で下ろす。後日でいいと言ったって、出来る事なら、数日空くのは避けたかった。タイムロスは少ない方がいいに決まっている。
「良かったら、食事にでも行かない? 夕飯には少し早いけど、この近くの良い店を知っているの」
「いいんですか? 嬉しいです」
レナは本当に嬉しそうに言う。アスカも悪い気はしなかった。
本来ならきっとレナのことを嫌いになっているだろう。事実を知っているのは、アスカだけだったが、レナが恋敵であることに変わりはない。けれど、自分に対して好意を持ち、可愛く振る舞うレナを見て、嫌いになどなれるはずもなかった。そんな自分の気持ちにアスカは驚いてもいた。
アスカは複雑な気持ちのまま、下調べをしておいたエスニック料理の店へレナと向かった。

ゆっくり色々なことを聞き出したかったアスカは、エスニック料理の店へと向かう道中では、敢えて、会話の内容を映画の話題に絞った。
アスカは映画の話をしながらも、頭ではレナに訊き出す内容をまとめ、手順を確認していた。
レナとヒサシをいかに早く別れさせるかは、アスカの腕にかかっている。今まで色々な遠回りをしてしまった分、アスカは焦っていた。
「ここよ」
エスニック料理屋のドアを開けた瞬間、アスカの背中には嫌なものが走った。
アスカの目に飛び込んで来たのは、ヒサシだったのだ。浮気相手と来ているのか、仕事で来ているのかはわからない。
けれど、こんな早い時間に仕事を抜け出してくることが出来るのだろうか。それとも、平日だというのに、休みだというのだろうか。
理由はどうあれ、ヒサシが同じ店にいるというのはまずい。幸いにも店員はまだアスカたちがやって来たことに気が付いていなかった。アスカは機転を利かせて、レナの方を振り向いた。

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