小説「サークル○サークル」01-211~01-220「加速」まとめ読み

アスカが帰って来たのは、昼過ぎだった。
「ごめん、事務所で寝ちゃってて」
アスカは帰って来るなり言った。確かに洋服もそのままだし、入浴した形跡もない。特に他の男の香りがするということもなかった。
そこまで考えて、シンゴは自分の考えていることに苦笑しそうになる。そんなに気になるなら、本人に聞いてしまった方が早い。なのに、訊くことすら出来ないのだ。どれだけ、自分が臆病なのかを目の当たりにしている気がした。
「お風呂入る?」
「うん、入りたい」
「じゃあ、今沸かしてくるよ」
「ありがとう。シンゴはいつも優しいよね」
アスカは嬉しそうに言う。その言葉に他意はない。けれど、アスカの今の言葉にシンゴはささやかな引っ掛かりを覚えた。
“いつも”とは一体誰と比較しているのだろう。“いつも”は優しくない誰かと比べられているのだろうか、とシンゴは良くない方向へと考える。そんな考えを払拭するように、かぶりを振ると、シンゴはバスルームへと向かった。

アスカが風呂に入り、シンゴはソファに座って、コーヒーを飲んでいた。
平静を保たなければ、と思えば思うほど、アスカの目を見られなくなっていく。そんな自分にシンゴは呆れかえっていた。自分はもう少ししっかりしていて、頼れる男だと思っていたのだ。
些細なことで動揺して、普通にしていられないなんて、中学生みたいだな、とシンゴは自嘲する。
コーヒーを飲み干すと、シンゴはマグカップをシンクへと持って行った。そのまま、マグカップを洗い、水切りかごに置くと、冷蔵庫を開けた。
朝帰りした妻に食事を作る為だった。浮気をされているとわかっていても、アスカに優しく接してしまう自分は本当にバカだと思う。浮気をされてよくわかったことだけれど、どうしようもないくらいアスカのことが好きなのだ。だから、仕方がないな、とも思った。
冷蔵庫から卵と生クリームを取り出すと、シンゴは手際良く、ボウルに卵を割り入れ、生クリームと岩塩を入れて、かき混ぜ始める。アスカの好きなスクランブルエッグを作ろうとしていた。

アスカがシャワーから出て来るのを見計らって、シンゴはマフィンをトースターに入れる。アスカのことなら、どんなことでもよくわかっていた。シャワーを浴びる時間もシャワーから出て来て、スキンケアをする時間がとれくらいかかるかも全部。そんな自分を差し置いて、他の男がアスカを自分のものにしているなんて、許せなかった。
アスカへの愛情は、誰にも負けるはずがないと思っていた。そんな風に思う反面、そんなことを思っている自分を冷めた目で見てもいた。どんなにアスカのことをわかっていたとしても、アスカが自分に興味を持ってくれなければ、なんの意味もない。シンゴは恋愛は一方通行では成り立たないのだ、ということを痛いほど、今回のことで思い知っていた。
恋人同士であれば、きっとすでに別れていただろう。アスカだって、シンゴといるより、浮気相手の男と一緒にいる方がいいに違いない。けれど、結婚しているから、簡単に別れることも出来ず、仕方なく一緒にいるのだろう、とシンゴは思っていた。

マフィンが焼き上がり、そろそろ、スクランブルエッグに取りかかろうとしたところで、アスカがキッチンにやって来た。スキンケアまで終えているようで、肌はつやつやしている。ただ髪はまだ濡れていた。
「何、作ってるの?」
アスカは髪を拭きながら、シンゴに問う。
「アスカの朝食だよ。マフィンとスクランブルエッグでも、と思って」
「ありがとう。シンゴも疲れてるのに、ごめんね」
アスカはそう言って、シンゴ笑顔を向ける。シンゴがアスカの気遣いに驚くのをよそに、アスカはそのままソファに座って、髪を念入りに拭き始めた。
シンゴはアスカのやましい気持ちを少しでも緩和する為にきっと優しいのだ。そう思ってはみるものの、アスカに優しくされると、つい嬉しくなってしまうのも事実だった。
アスカの一挙手一投足に一喜一憂してしまう自分をまるで中学生みたいだな、とシンゴは内心自嘲する。
シンゴは気を取り直して、油をひいたフライパンに溶いた卵を勢いよく流し込んだ。

「出来たよ」
シンゴはスクランブルエッグと、バターを乗せたマフィンを食卓テーブルに運びながら、アスカに言う。アスカは髪を拭く手を止めて、シンゴの方を見て、さっきと同じ笑顔で「ありがとう」と言った。
アスカは洗面所に行き、髪を一つにまとめて、ヘアクリップでアップにした姿で食卓テーブルに戻ってくる。
「美味しそう! いただきます」
アスカは嬉しそうに言った。
「どうぞ」
シンゴは向かいに座り、淡々と言う。ここで笑顔になれれば良かったものの、いろんなことを考え過ぎて、作り笑いすら上手く出来なかった。アスカに不審に思われなければいいな、と祈るような気持ちでコーヒーに手を伸ばす。
シンゴは平静を装うようにコーヒーに口をつけた。苦味と酸味が口の中に一気に広がり、その両方が口の中から消え始めた瞬間、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「やっぱり、シンゴの作るスクランブルエッグは最高ね」
アスカは満足そうに微笑むと、シンゴを見つめた。

「そんなに大したものじゃないよ」
普段なら、照れ笑うかもしれなかったが、感情の起伏も特になく、シンゴは答える。
「最近、仕事はどう?」
シンゴはドキドキしながら訊いた。どんな言葉がアスカの口から聞こえて来ても、平静を装わなければ、と思いながら、アスカの言葉を待つ。
「順調よ。取り敢えず、浮気相手のコには顔を覚えてもらったから、常連になる作戦は成功ってところね。あとは上手く接触していくだけよ」
シンゴはほっと胸を撫で下ろす。自分が想像していた最悪の返答ではなかったからだ。けれど、気になっていることを訊かずにはいられなかった。
「ターゲットとはどう?」
シンゴの言葉にアスカは食事の手を止めた。
「どう……って言われても、バーで仕事をしてた時以降、会ってないのよね……」
「ホントに?」
シンゴは思わず、ほんの少しの間も置かず、問うていた。
「ホントよ。接触する理由がないもの。ターゲットがどうかしたの?」
「えっ……いや、特に何もないんだけど……。ちょっと気になって」
「変な人ね」
アスカは笑うと、再びスクランブルエッグを食べ始めた。
自分の思い過ごしなのだろうか?
シンゴはそう思ったけれど、事実は何もわからない。アスカにしかわからないのだ。

アスカはシンゴの異変に気が付いていた。
シンゴは単純な男だ。どんなこともすぐに態度に出る。そして、アスカはそれをいつも見ない振りをしてきた。今回、シンゴが何について、引っ掛かりを覚えているのかはわからなかったが、もしかしたら、自分とターゲットとの仲を疑っているのではないか、と考えていた。
確かに一時期、ヒサシに心を奪われていたのは事実だ。勿論、今だって、会ってしまえば、その気持ちは加速する一方だろう。だからこそ、アスカはなるべく接触しないようにしているのだ。
シンゴとの結婚生活を台無しにはしたくないと思っていた。
それは自分の気持ちと逆行する行為のような気もしたが、それが結婚している、ということだと彼女は考えていた。
「僕がやるよ」
食べ終えた食器を片付けようとアスカにシンゴが言った。
「ううん、このくらい自分でするわ。シンゴは仕事頑張って」
アスカは笑顔で言うけれど、シンゴは「ありがとう」と俯き加減に答えた。

翌日、アスカはいつも通り、レナのいるカフェにやって来ていた。
「おはようございます。いつもので宜しいですか?」
レナはアスカを見つけるなり言った。
「えぇ、お願い」
アスカはにこりと微笑んで言う。
今日のアスカは1枚のチラシを持っていた。
「あ、それ、観て来たんですか?」
アスカの持っている映画のチラシを見て、レナは言った。
「いいえ。これから観ようかと思って」
アスカの言葉にレナも「私も観たいなーって思ってるんです」と笑顔で言う。
アスカは内心ガッツポーズする。この言葉の為にわざわざレナに見えるようにチラシを持っていたのだ。
「ペアの鑑賞券を持っているんだけど、良かったら、一緒に観に行かない? あなたが良ければだけど」
アスカの言葉にレナは目を丸くした。
「いいんですか?」
「えぇ、一人で観に行くのは勿体無いでしょう。折角のペア鑑賞券なのに」
アスカの言葉にレナは声を潜めた。
「お店にナイショでお願い出来ますか? お客さんと出掛けるのは怒られると思うんで」
「えぇ、勿論」
アスカはにっこりと微笑むと、「いつが都合いいかしら?」と小声で訊いた。

「今日、15時までなんですけど、それ以降なら大丈夫です」
「じゃあ、16時に近くの映画館の前で待ち合わせなんてどう?」
「それでお願いします」
「これ、私の名刺。何か困ったことがあれば、ここに連絡して」
アスカは名刺を差し出した。そこには“エミリーポエム”所長と書かれてあった。
レナは一体なんのお店だろう? と思ったけれど、特に口には出さなかった。
それよりも、気になっていた映画をタダで観られることにテンションが上がっていたのだ。しかも、もっと話してみたいな、と思っていたアスカに誘われたというのも理由として大きい。
カフェには色々な客が来る。横柄な態度を取ったり、感じの悪い客を見るとイヤだな、と思うこともあるけれど、大抵の客は客としてしか見ないから、特に何とも思わない。けれど、極たまに、気になる客というのがいる。その人の持つ雰囲気だったり、しぐさだったりに心惹かれるのだ。別に恋とか言うわけではなく、人として気になる。それがレナにとって、アスカだった。

アスカはカフェから事務所に戻ると、書類に目を通し始める。机の上に乱雑に置かれた書類を一枚ずつ確認し、必要なものはファイリング、すでにいらなくなった書類はシュレッダーにかけていく。
すると、ひらりと一枚の写真が落ちた。
「……」
写真を拾い上げ、アスカは無言のまま、厳しい眼差しで写真を見た。
その写真にはヒサシが写っていた。眼鏡の奥の瞳には、男としての色気がありありと見え、その唇には甘い言葉を期待してしまいたくなる何かがあった。
アスカはヒサシの写真を裏返すと、そのまま、机の上に置いた。
ヒサシとは随分会っていなかった。ヒサシのことが頭を過ぎっては、会いたいと思ってしまう自分がいる。けれど、それは許されないことだということも、アスカは知っていた。
アスカは別れさせ屋だ。この仕事を始めた時、仕事とプライベートは一緒にしないと決めた。
なのに、今回の依頼では、公私混同もいいところだ。アスカはヒサシの魅力にとらわれ、我を忘れそうになっていたのだ。
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