小説「サークル○サークル」01-1~01-10.「依頼」.まとめ読み

サークル〇サークル画像
「お願いがあるんです」
 女は事務所に入ってくるなり、そう言った。ここは別れさせ屋「エミリーポエム」ちんけなこの名前を考えたのは他でもないここの所長であるアスカだ。
 アスカは女に視線をやり、銜えていたタバコを口から放すと、煙を吐き出した。
「あなたは?」
「先日、お電話させいただいたカイソウ マキコと申します」
 女の名前を聞いて、アスカは目だけ天井に泳がせる。彼女が何かを思い出そうとする時の癖だった。
「あぁ、ご主人の不倫をやめさせたい、って言ってた?」
「そうです。主人とその不倫相手を別れさせたいんです!」
 マキコはぎゅっと手を握りしめ、吐き捨てるように言った。
「今、お茶を淹れますから、どうぞそちらにかけて下さい」
 アスカは至って事務的にマキコに言うと、短くなった煙草を灰皿に押しつけ、キッチンへと消えた。エミリーポエムは古びたビルの2階に位置する。キッチンも旧型で使い勝手は悪かったが、お湯が沸かせればいいと思っているアスカにとっては、別段問題はなかった。

 アスカはやかんに水を入れると、強火にかける。今時、ポットを使わないなんて珍しい、と思いながら、マキコはソファに腰を下ろした。
 お湯を沸かしている間、アスカはティーポットにティーリーフを入れる。何事にも大した興味を示さないアスカだったが、紅茶にだけはこだわりがあった。キッチンの引き出しには、珍しい紅茶がいくつもストックされ、気分や来客者によって、味を変える。客であろうと、敬語をほとんど使わない無神経なところはあったが、相手によって紅茶の味を変えるなどという細やかな気遣いをする一面も彼女は持ち合わせていた。
やかんのけたたましい笛の音が事務所に鳴り響く。やかんはせわしなく、お湯か沸いたことを知らせ続けた。アスカは慌てるそぶりもなく、のんびりとした動作で火を止めると、ティーポットにお湯を注ぐ。かぐわしい紅茶の匂いが事務所に広がった。アスカはしっかり3分待って、ティーカップに紅茶を淹れた。
 トレイには、ソーサの上に乗った紅茶の入ったティーカップと角砂糖、それから皿の上にはアスカが昨日買っておいたスコーンが乗せられていた。
「お待たせしました」
 アスカは言うと、マキコの前に紅茶を置く。全てを置き終わると、彼女はマキコの向かいのソファに腰を下ろした。

「どうぞ、召し上がって下さい」
 アスカは紅茶に手をつけようとしないマキコに言った。彼女はそんなアスカを遠慮がちに見る。
「あの……ミルクってありますか?」
「ごめんなさい。ミルクは用意してないの。この紅茶はストレートで飲んだ方がおいしいから、大丈夫よ」
「……」
 マキコにとっては、そういう問題ではない。マキコは口をつぐみ、砂糖を大量に入れると、紅茶に口をつけた。
「あの……それで、依頼は受けていただけるのでしょうか?」
「えぇ。受けること自体に問題ないわ。ただ金額の折り合いがつけば、といったところかしら」
「お金ならあります! パートで貯めたお金がありますから」
 真剣な目をして言うマキコに「失礼」と言って、アスカは煙草に火をつけた。
 たかがパートでいくらのお金があるって言うんだか……。
 アスカは内心そう思ったものの、口には出さず、煙草の煙を吐き出した。
「結構、かかるわよ?」
「それは承知の上です! 300万、用意しました」
「300万!?」
 パートで貯めたと言われ、アスカは50万、多くて100万程度だろうと思っていたので、心底驚いた。
「だから、お願いします! どうか、主人とあの女を別れさせて下さい!」
「……わかったわ。この依頼、正式に引き受けさせてもらうわね」
 アスカは300万という大金に思わず顔がにやけそうになるのを必死で堪えながら、神妙な面持ちで言った。

「ご主人の写真はある?」
 アスカの問いにマキコはバッグから1枚の写真を取り出した。
 いいバッグ持ってるわねぇ、とマキコのバッグを見ながら、アスカは思う。もしかしたら、マキコはパートで稼いだと言っているが、親が金持ちなのかもしれない。だったら、300万も貯金出来るのも納得出来る。
 アスカは写真を受け取ると、視線を写真へと落とす。
写真の中のマキコの夫は、眼鏡がよく似合うキレイな顔立ちの男だった。インテリな雰囲気を漂わせているが、全く嫌味な感じがしない。それだけではなく、この手の男にありがちないけ好かない感じや胡散臭さが微塵も感じられなかった
 なんだ、浮気野郎にしてはイイ男じゃない……とアスカは思ったが、それを表情に出さないように努めた。ここで顔に出してしまうと、信用問題に関わることを彼女は知っている。
「で、このご主人が浮気をしている、と」
「はい。そうなんです!」
 まぁ、これだけイイ男なら、黙ってても女が寄って来るわよね、と言いそうになったが、アスカはそんなことを思っているなんて、おくびにも出さずに話を続けた。
「別れさせてほしいってことは、もう浮気相手もご存じ?」
「はい……」
「その方はご主人とは、どういうご関係かしら?」
 アスカは写真に視線を落としたそのままで、マキコに問うた。

「主人の勤めている会社のビルに入っているセルフサービスのカフェの店員のようなんです……」
 マキコは伏目がちに言った。
「へぇ……」
 浮気の種類としては、特に珍しいパターンではなかった。男は身近な女に手をつけることが多い。社内で不倫をしている人間が多いことからもそれは明白だ。
 アスカは煙草の煙を吐き出すと、まじまじと写真を見た。この手のモテる男というのは、女好きが多く、落とすのは大概簡単だ。けれど、自分がモテることを自覚している分、何人も女を囲おうとするタイプが多い。たちが悪いかもな、とアスカは写真を見ながら眉間に皺を寄せた。
「期限の希望はおありかしら?」
「別れさせてくれるなら、特には……。ただ早ければ早いほど、嬉しいです。出来れば、この子が生まれてくるまでには……」
 そう言って、マキコは自分の腹をさすった。アスカはマキコの腹を見据える。
 やることはしっかりやってたってわけね……とアスカは内心ごちる。
「今、何ヶ月目?」
「3ヶ月です」
「そう……。半年以内……出来れば、3ヶ月以内には決着をつけたいところね」
「お願いします!」
 マキコは深々と頭を下げた。必死に頭を下げるマキコを見て、アスカは顔を上げるように言うと、金額の説明を始めた。

 アスカはマキコを送り出すと、仕事の段取りを決める作業に入った。今回のターゲットは依頼主の夫である「カイソウ ヒサシ」だ。彼は大手企業の会社員で年齢は31歳。アスカより2歳年上だ。マキコの話によると、よく行くバーがあるという。そのバーは「エミリーポエム」から3駅離れたところにある「crash」というバーらしい。アスカはそのバーでヒサシに接触するつもりでいた。
現在、「エミリーポエム」には数名のアルバイトのスタッフがいたが、別の案件で出払っていて、実質今動けるのはアスカしかいない。幸い、今回のターゲットとは年齢も近く、接近するのにはさほど困らない。ただもう少し美人でスタイルが良ければ、余計な不安など持たなくていいのにな、とアスカは思う。
「さーて、どうしたもんかなぁ……」
 椅子に踏ん反りがえって座り、足を机の上に置く。お世辞にも行儀の良い格好とは言えなかったが、1人でいるからこそ、出来る格好でもあった。
「落とすのは簡単……だけど、別れさせるのが難しいタイプなのよね……」
 1人でぶつぶつと言いながら、アスカは自分の考えを整理していく。こうやって、自分の中にある考えに筋道を立てていくのが彼女の習慣だった。口に出すことで自然と矛盾が解決される、というのが彼女の持論なのである。

「……」
 ぴたりと彼女の独り言が止まる。それと同時に机から足を下ろすと、机の上にある煙草に手をやった。それはアスカの考えが行き詰まったことを意味していた。最後の1本を取り出すと、火をつける。アスカは思い切り肺に煙を吸い込むと、目を閉じた。
「やり方は1つじゃない……。だけど、どうすればいい?」
 誰もいない事務所で誰かに問いかけるようにアスカは言う。無論、それは自分に対する問いかけにしか過ぎない。
 あっという間に煙草は短くなり、アスカは仕方なく、灰皿に煙草を押しつけた。細く揺れる煙にアスカは溜め息をつく。煙草がなくなったのが、仕事終了の合図だった。彼女は帰り支度を済ませると、戸締りと火の元を確認し、電気を消して、事務所を後にした。彼女の自宅は事務所から自転車で10分程度のところにあるので、通勤は決まって自転車だった。雨の日も彼女は河童を着て、自転車で通勤する。健康の為、という建前はあったが、本当の理由は年齢を重ねるごとに少しずつ出っ張って来た下腹を引っ込める為だった。中年太りをするにはまだ早い、と思っていたが、20代も後半に差し掛かると、身体は正直なもので、10代とは違った動きをし始める。それから逃れるように、アスカは自転車通勤で気を紛らわせていた。しかし、残念ながら、彼女は効果をさほど感じられてはいなかった。

アスカは事務所の階段横に停めてある自転車にまたがると、颯爽と走り出す。夕陽に染まっている商店街に目を細め、右へ左へとハンドルを切る。しばらくすると、どこにでもあるような茶色い外壁のマンションが目の前に現れた。彼女は駐輪場に自転車を置くと、エレベーターに乗り込み、3のボタンを押す。1年前に新築で購入したこのマンションも、今では当時の輝かしさはなかった。アスカは購入する時に3階にこだわった。それは何か事故が起きて飛び降りなければならないことがあっても、3階ならば飛び降りても死なないだろう、と思ったからだ。実際、1年経ってもそんなハプニングに見舞われることはなかったし、きっと今後もそんなハプニングに見舞われることはないだろう。時折、突拍子もないことを考えるのが彼女の長所でもあり、短所でもある。
 3階でエレベーターが止まると、アスカはキーを解除し、玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
 アスカは靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると、リビングへと向かった。
「おかえり。今日は早かったね」
 アスカを出迎えたのは、夫のシンゴだった。ぼーっとした雰囲気のいまいち冴えない男である。

「煙草が切れちゃったから仕事を切り上げたの……って、いけない。煙草買うの忘れちゃったわ」
「煙草なら、買っておいたよ。そろそろ、切れる頃だろうと思ってね」
「あら、気が利くじゃない」
「君と一体何年付き合ってると思うんだよ」
「10年くらいかしら?」
「そうだね。結婚する前から数えるとそのくらいだろうね」
 アスカは荷物をソファの横に置くと、手洗いとうがいをする為に洗面所へと向かう。その間にシンゴはキッチンで料理を温め直していた。
 食卓テーブルに着くと、アスカの前には次々とアツアツの料理が並べられた。
「おいしそう!」
「僕が作ったんだから、おいしいに決まってるよ」
 シンゴは得意げに言った。こんなことで胸を張っている場合ではないということに、彼は気が付いていない。彼の本職は作家である。その仕事が上手くいかないから、普段はほとんど主夫業に専念しているのだが、そのことに対して危機感がこれっぽっちも感じられなかった。それがアスカの悩みのタネでもある。
「いただきます」と言って、アスカは料理に箸をつけた。チーズグラタンと様々な野菜の入ったサラダに、パンプキンスープ、フランスパンはご丁寧にガーリックトーストにされていた。
 無言で次々と口に運んでいくアスカを嬉しそうに見ながら、シンゴは向かいの席に腰をかけた。

アスカはシンゴの気配に気が付いて、顔をあげる。
「そう言えば、調子はどう?」
 アスカは食事をしていた手を止めて、シンゴに問うた。
「まぁまぁってところかな。アイデアは浮かぶんだけど……。結末が思いつけなくて」
 苦笑するシンゴを見て、へらへらして言うことじゃないだろう、とアスカは思ったが、口には出さなかった。そんなことを言ったところで、この男の性格が改善されるわけではないことを、彼女はよく知っていた。
「結末が思いつかないんじゃあ、どうしようもないわね」
「そうなんだよ。結末が決まってないと、プロットは出せないからね。プロットがなければ、小説を書きだすことは出来ないし……」
 小説の骨組みとなるプロットは、物語の始まりから終わりまでを端的に書いたものだ。これがなければ大抵の場合、編集者に小説の執筆に入らせてもらえないことが多い。結末が浮かばないシンゴにはこの最初の段階であるプロットすら書けないということだ。それは仕事が全然進んでいないことを意味する。アスカは溜め息をぐっと飲み込み、続けた。
「結末は浮かびそうなの?」
「あとちょっとってところかな」
「それ、1か月前も言ってなかった?」
「あぁ、あの時の小説は結局ボツにしたよ。あれは今思うと全く面白くなかったからね」
シンゴは悪びれる風もなく、いけしゃあしゃあと言い放った。

続き>>1-11~01-20.「依頼」.まとめ読み

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