小説「サークル○サークル」01-81~01-90「動揺」まとめ読み

「そうだなぁ……。落ち着いているから、既婚者なのかな、と思ったけれど、若そうだし、独身かな?」
ヒサシは然して悩んだ様子もなく、さらりと答えた。
「えぇ、そうなんです」
アスカはあっさりとヒサシの言葉を肯定した。
それが良かったのか悪かったのか、アスカにはわからない。けれど、仕事を遂行しているという点では正解だと思った。少なくとも、これでヒサシが自分を浮気相手の一人にする可能性は上がった、さすがのヒサシも既婚者をターゲットにすることはないだろう、と踏んだのだ。アスカは次に言うべき、適当な言葉を探していたけれど、見つけることが出来ずにいた。ヒサシが口を開こうとした瞬間、遠くの席からアスカを呼ぶマスターの声が聞こえた。
「すみません、失礼します」
アスカは会釈をし、ヒサシの元を後にする。内心、そっと胸を撫で下ろした。あのまま、あの場にいては、きっと何かしらボロを出していたに違いない。アスカはマスターの指示従い、別の客に食事を運ぶ。そんなアスカの姿をヒサシはじっと見据えていた。

「お待たせ致しました」
しばらくして、アスカはヒサシに呼ばれて、再び彼の前に立っていた。
「おかわりを」
静かにヒサシは言い、アスカはドリンクの注文をマスターに伝えに行く。ドリンクが出来上がると、ヒサシの元へと運んだ。
「バーボンでございます」
「ありがとう」
ヒサシはドリンクをコースターの上に置こうとしたアスカから、わざと手を添えて受け取った。初めて触れるヒサシの手にアスカの鼓動は高鳴った。
「キレイな手をしているね」
ヒサシは事もなげに言う。
「そんなことありませんよ」
アスカは速まる鼓動に気付かれないよう、俯きながらヒサシの言葉に応えた。
「白くて、細くて、もっと触れたいと思ってしまう」
歯の浮くようなセリフもヒサシは照れることなく口にする。それは酒が入っている所為なのか、生まれ持った才能なのか、アスカには測りかねたが、それでも彼に言われると嫌な気はしなかった。まるで、漫画や小説の主人公になった気分さえするのだから、自分も手に負えないな、と呆れてしまう。アスカが顔を上げると、ヒサシの両の瞳がアスカをじっと見据えていた。

ヒサシの言葉に浮かれている自分がいる。けれど、これは仕事なのだと冷静なもう一人の自分が諭す。揺れ動く気持ちの中でアスカはヒサシに笑顔を向けた。どうとでも取れる笑顔だ。嬉しいとも、ふざけたことを言わないでとも。アスカはヒサシの前から去ろうと、踵を返した。ふいに強い力で腕を引っ張られて、彼女は振り向く。ヒサシの大きな手がアスカの左腕を掴んでいた。
「何か?」
アスカは冷静を装いながら言う。それ以上の言葉はとてもじゃないが、思いつけなかった。
「離したくないと言ったら怒る?」
「それは……」
ヒサシの目はいつになく真剣で、アスカは答えに詰まった。目を伏せ、適当な言葉を探すけれど、気の利いたセリフを思いつけない。アスカが迷っている間にも、ヒサシの手に込める力が強くなる。「離して下さい」と言おうとして、顔を上げた瞬間、アスカは自分の身に起きたことを一瞬理解出来なかった。
ヒサシの唇が喋ろうとしたアスカの唇を塞いでいたのだ。あまりの出来事にアスカはされるがまま、その場に立ちつくしていた。反論しようにも唇を塞がれていては、声を発することさえ出来ない。やっとの思いで、アスカはヒサシの肩に手を当て押しのけようとした。

ヒサシもアスカのその動作に我に返ったのか、はたまたこれ以上は無理と踏んだのか、アスカから手を離し、席に座る。
アスカは言いたいことをぐっと堪えて、ヒサシを睨みつけると、その場を後にした。
まさか、ヒサシがあんな行動に出るとは、アスカは夢にも思っていなかった。
適当に女を口説き、自分に靡きそうな女だけを相手にしているのだと思っていた。けれど、ヒサシは違う。自分が手に入れたいと思った女は悉く手に入れないと気が済まないタイプなのだ。タチが悪いな、とアスカは思う。マキコから再依頼があれば、手段を選ばないような男と対峙しなければならないのだ。勿論、今までだって、こういうケースがなかったわけではなかった。けれど、自分がここまで標的にされることもなかったのだ。あくまで、アスカ自身が近付いていき、相手をその気にさせる程度だった。しかし、今回の場合は違う。まだ本格的に接近もしていないのにアスカはターゲットにされているのだ。作戦をきっちり練らなければ相手のペースにハマるだけだ、とアスカは分析する。だが、彼女は狼狽えてもいた。あの時――キスをされた時、不覚にもトキメキを覚える自分がいたのだ。こんなこともこの仕事を始めてから初めてのことだった。

しばらくして、会計の為にアスカはヒサシに呼ばれた。いつも通りの手順で会計を済ませ、ヒサシはバーを出て行こうとする。思わず、視線で追っている自分にアスカは苦笑した。十分過ぎる程、アスカはヒサシに心を掻き乱されているのだ。
ヒサシはドアの前で一度立ち止まり、アスカの方を見た。アスカは慌てて、視線をそらす。ヒサシは何も言わずに、バーを出て行った。寂しげにドアベルが鳴った。

家に着くと、アスカは玄関の電気を点けた。シンゴは寝ているのだろう。部屋の灯りは全て消されており、玄関より先は真っ暗だった。アスカは靴を脱ぎ終えると、玄関の電気を消して、真っ暗な廊下を進む。慣れた手つきでスイッチを見つけ、リビングの灯りをつけた。食卓テーブルには今日も美味しそうな料理が並べてあった。
コートをハンガーにかけ、手洗いとうがいを済ませると、アスカは溜め息混じりで食卓テーブルにつく。椅子に腰を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
食卓テーブルに視線を落とし、思わず頬が緩む。今日は和食だった。鮭の西京漬け焼きと小松菜のおひたし、味噌汁の横にはレンジで温めてのメモが置いてあった。アスカは席を立つ気にはなれず、冷えた味噌汁に口をつける。それはそれで悪くはないな、と思いながら、お椀を置き、おひたしに醤油をかけ始めた。

「あれ? 今、帰って来たの?」
アスカは突如現れたシンゴに驚き、顔を上げる。
「お醤油、かけ過ぎじゃない?」
寝ぼけ眼でシンゴはアスカに言った。アスカは手に持った醤油差しに目を向けると、すでに小松菜は黒い液体に浸かっていた。
「あーあ。それじゃあ、食べられないくらい辛くなってるだろうね。器換えるから待ってて」
シンゴはそう言って、キッチンへと消える。アスカは今日のヒサシとの一件で自分が少しぼーっとしているのかもしれない、と思った。
「アスカ、お味噌汁って温めた?」
「ううん。温めてない」
キッチンから別の器を持って来たシンゴは、小松菜のおひたしを新しい器に入れ直しながら問う。
「やっぱりね。電子レンジを使った形跡がなかったから。今、温めて来るよ」
そう言って、シンゴは新しい器に入った小松菜のおひたしをアスカの前に置くと、味噌汁の入ったお椀を持って、再びキッチンへと向かった。
アスカはシンゴが戻ってくるまでの間、ただただ食事を見つめていた。

「はい、お味噌汁とご飯。何もせずにすぐ座っちゃったんだね」
シンゴはアスカの向かいの席に腰を下ろした。
「うん……」
「アスカが面倒くさがりなのはいつものことだけど……。今日は何かあった?」
「えっ……」
「顔に書いてある」
「何もないけど……」
「話したくないなら別にいいけど、僕にはお見通しだよ」
「嘘ばっかり」
「嘘なもんか。一体、何年夫婦をやっていると思ってるんだよ」
シンゴのセリフにアスカは言葉に詰まった。本当にこの人は自分を見透かしているのかもしれない、と思ったのだ。アスカはシンゴをまじまじと見据えた。相手は作家だ。小説は人を書くことだ、と昔シンゴから聞いたことがある。それだけ、沢山の人を観察し、感情の機微を感じ取るとも言っていた。「だったら、あなたの方がこの仕事に向いてるかもしれないわね」とアスカが言うと、シンゴは「いつでも力を貸すよ」と笑いながらアスカに言ってくれた。そんな随分と昔のことを彼女は思い出していた。あの頃は本当に幸せだったとも思った。

「本当に何もないのよ」
「そうか」
腑に落ちないといった表情でシンゴはアスカを見ている。けれど、アスカは意に介する風もなく、西京焼きに箸を伸ばした。
「おいしい」
西京焼きを口に入れ、アスカは言った。正直、緊張の所為か味はよくわからなかった。けれど、シンゴの料理がまずかったことなど一度もないのだから、この西京焼きも美味しいに違いない、とアスカは思って口にした。
「良かった」
シンゴはほっとしたように言う。
「シンゴの作る料理でまずかったものは今まで何もないわ」
「僕の取柄は料理が上手いことくらいだからね」
「そんなことない。他の家事だって、完璧だわ。私がするより、よっぽど丁寧よ」
「それは君より時間があるからさ」
自嘲気味に言ったりしないところを見ると、シンゴは心の底からそう思っているようだった。
「違うわ。元々の性格よ。私は大雑把だけど、あなたは几帳面」
「結婚した頃、よく君はO型で、僕はA型だから仕方ないって話をしたね」
「そうね、若い頃はそんな話もよくしたわ」
「懐かしいな」
シンゴは目を細めた。きっと昔のことを思い出しているのだろう。アスカはそんな夫を見て、なんだか嬉しくなった。
「どうしたんだよ」
「えっ?」
「ニヤニヤしてるから」
「そんなことないわよ」
アスカは慌てて否定すると、西京焼きをもう一度口の中に放りこんだ。
「お風呂に入ってくる」
アスカは食事を終えると、そう言って立ち上がった。食器を持って、キッチンへ行こうとする彼女を「僕が片付けておくよ」とシンゴが制した。アスカは「ありがとう」と言って、風呂場へと消えていく。その後ろ姿が完全に見えなくなったところで、シンゴは大きく溜め息をついた。
アスカの様子がおかしいことは一目瞭然だった。シンゴにはだいたい想像がついていた。例のターゲットと何かあったのだ。アスカから他の男の匂いがしていなかったことや、ボディソープの香りがしていなかったことを考えると、男女の関係になった、ということは考えづらい。けれど、キスくらいならしていてもおかしくないだろう、とシンゴは踏んでいた。アスカが風呂からあがったタイミングで問いただすことも出来るが、それは得策でないということをシンゴはわかっている。アスカは頑なに否定するだけだ。シンゴはアスカに白を切りとおしてほしいわけではない。アスカの恋を阻止したいのだ。その為には作戦を練る必要がある。シンゴは覚悟を決めると、一つ大きく頷いた。

一体、どうやって、アスカの気持ちを取り戻そうか。シンゴはいつになく頭を使っていた。こんなに頭を使うのは、久々だと思った。それは普段小説を書くことにそこまで力を注いでいないということを意味していた。そんな自分の怠惰さに呆れながらも、シンゴは久々に懸命に思考を巡らせた。自分の妻を取られるわけにはいかない。
アスカは明らかにターゲットに恋焦がれている。では、どうすれば、その恋は終わるのだろうか。それは簡単なことだ。ターゲットが元の鞘に収まればいいのだ。ふらふらとしている男が自分の戻るべき場所に戻れば、アスカを振り向くことはない。自分を振り向かない男に大抵の女は愛想を尽かすはずだ。
実際、アスカは本当にターゲットを愛しているのだろうか。その点にも疑問が残る。普段は感じることの出来ないトキメキをターゲットがほんの少しアスカに与えただけなのではないだろうか。そう、錯覚だ。きっとアスカはほんの少しのトキメキを恋だと錯覚しているに違いない。
不倫をするような男だ。アスカにだって、言葉巧みに近寄って来たのだろう。アスカはああ見えて、意外に純粋で恋愛経験が少ない。シンゴもそんなに多い方ではなかったが、アスカより恋愛経験がある自信はあった。
ここはやっぱり――そこまで考えて、シンゴは一つ大きく頷いた。
彼にはこの勝負に勝つ為の作戦があった。

続き>>01-91~01~100「加速」 まとめ読みへ

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