小説「サークル○サークル」01-424. 「加速」

“あなたも浮気していたんですね”とストレートに言うわけにもいかない。けれど、事実関係をはっきりさせておきたいという気持ちもあった。でも、それはアスカの立場で踏み込んでいい領域ではないこともわかっている。
アスカは煙草に火をつけて、気持ちを落ち着かせようとした。一本吸うともやもやは少しおさまった。続けて、二本目に火をつける。二本目を吸い終えても、気持ちが完全に落ち着くことはなかった。
大きく溜め息をついて、天井を見上げる。アスカは机の上に足を上げ、目をつぶった。
自分のしている仕事の意味を考える。誰かを幸せにして、誰かを不幸にする。けれど、それはただ元の状況に戻しているだけだ。
元の形から変形して、不倫という形を選ぶには、きっと何かしらの理由がそこにはある。その理由を半ば無視して、法的に問題があるからと、不倫をやめさせるのだ。
それが正しいのか、と問われれば、正しい、と胸を張って言えない、とアスカは思う。
男と女のことに関しては、絶対という正しさは存在しないのだ。

小説「サークル○サークル」01-411~01-420「加速」まとめ読み

「恋愛とは楽しいばかりではありません。不安や嫉妬を覚えるからこそ、その後の二人の関係が深まるのでしょう? 負の感情なしに愛情は深まりませんよ」
一見、ヒサシの言っていることは正論で良い言葉のように聞こえる。しかし、ヒサシの立場を考えると、その言葉の薄っぺらさにアスカは吹き出しそうだった。
“負の感情なしに愛情は深まらない”とよく言えたものだな、と思う。
不倫をしてしまえるような薄っぺらい愛情しか妻に向けられないヒサシが言ったところで、その言葉に全く重みはなかった。
人は自分の立場を忘れて、言葉を選んでしまう時がある。それを目の当たりにすると、滑稽なのだということがよくわかった。
「だからと言って、わざわざ、最初から不安や嫉妬を抱えなければならない不倫を選ぶ必要性はないはずです。幸せになれる可能性が低いんですから」
「何を持って、幸せとするかによりますよ。最初から決めつけることなんて出来ないはずです。好きな人と一緒にいられる幸せの前では、他の不幸せは霞んで見えるかもしれません」
ヒサシはそこで区切るとコーヒーを口にした。

ヒサシの言っていることはよくわかる。けれど、都合の良い言葉のようにアスカには感じられた。
一体、レナは何を思っているのだろう。気にはなるけれど、今、聞くことは出来ない。もどかしさを抱えながら、アスカはヒサシとユウキのやりとりを待った。
ユウキをちらりと見遣れば、何を言おうか思案しているようだった。明らかに歩はヒサシにある。ヒサシは大人の余裕と持ち前の頭の回転の速さでユウキをじわじわと追い詰めている。きっと、ヒサシはもっと簡単にユウキを追い詰めることが出来るだろう。けれど、敢えて、それをしないのは、ヒサシの優しさなのかもしれない。
問題はレナがどういった結論を出すか、ということだ。
二人の会話をレナがどんな風に受け取るのかによって、レナが導き出す答えは異なってくるだろう。ヒサシと本当に別れたいのであれば、ユウキの言っていることに賛同すればいいのは明白だ。けれど、ヒサシの話の内容に心を打たれれば、別れるという選択自体をひっくり返さないとも限らない。

アスカはなるようにしかならない、と思っている反面、彼女の心の中から緊張が消えることはなかった。
「好きな人と一緒にいられる幸せ、とおっしゃいましたよね?」
「ええ」
「その好きな人と一緒にいる幸せとは、お互いがお互いだけを思い合ってる時にこそ、そこに存在するものではないでしょうか?」
「何をおっしゃりたいのかさっぱりわかりません」
「あなたには奥様がいらっしゃるんです。あなたが口ではいくらレナが一番だと言ったところで、二番は奥様ですよね。好きな人に順番がある時点で、その類の幸せは存在しないのではないでしょうか?」
ユウキの言葉にヒサシは「なるほど」と言い、ほくそ笑んだ。
「確かに私には二人の女性がいます。けれど、こうは考えられないでしょうか? 片思いであっても、好きな人に会える幸せは感じますよね? 好きな人に会える幸せというのは、片思いであるか、両思いであるかなんて、関係ないとは思いませんか?」
ヒサシの言葉にユウキは黙った。

きっと、ユウキは今の自分に当てはまるから、言葉を失ったのだろう。ユウキは片思いだとわかっていても、レナと会えることで幸せを感じているに違いなかった。
「いい加減にしてよ」
突然、ずっと黙っていたレナが口を開いた。アスカは驚いて、レナの方を見る。
「私のこと、なんだと思ってるの?」
レナは抑えた声の中にも怒りを滲ませていた。
「私はあなたに片思いをしていたとでも言うの? 私はあなたの一番だと思ってたから、付き合ってたの。それなのに……」
「そういう意味じゃない。言葉のあやさ」
「言葉のあやなんて嘘。そういう気持ちがなければ、出てこない言葉よ。わかってた。あなたに本当は私以外の女の人がいることも」
「……」
ヒサシは意外だというように、ほんの少し目を見開いた。彼が驚きを示したのは、その一瞬だけで、すぐに元の表情へと戻る。
アスカはレナが他にも浮気相手がいるという事実を知っていた、ということを気の毒に思った。大勢いる中の一人である、ということが、どれほど、女のプライドを傷つけるかは、想像に難くない。

「私はあなたと離れることが怖かったの。奥さんに申し訳ないって気持ちだって、ずっと消えることはなかった」
「……」
「そんな気持ち、私が持っていたことだって、ヒサシさんは知らなかったでしょ?」
レナの言葉にヒサシは罰が悪そうな顔をする。レナの言っていることが図星なのだろう。
ヒサシは自分の意のままに、相手を誘導するのが上手いし、女心だってよくわかっている方だろう。けれど、肝心な部分まで、相手のことを見てはいないのだ。
「黙ってるってことは、図星でしょ?」
いつものレナとは明らかに違った。
アスカの前では、弱気な面を見せていたけれど、ヒサシの前でこんなにもはっきりと発言するのだ。
だからこそ、レナの意思の強さをアスカは感じていた。
アスカはただ傍観しながら、ことの行く末を見守っていた。
ヒサシが一言「別れる」と言えば、この話は全て終わる。
けれど、ヒサシはその一言を決して口にはしない。
それはとても狡いことだ。きっとヒサシは気付きながらも、その狡さを心の中で肯定している。

埒が明かないな、とアスカは思った。こんな時、シンゴならどうするだろう、とふと思う。
別れさせ屋なのは、アスカだったが、そのブレーンはシンゴと言っても過言ではない。行き詰った時は、必ずシンゴが助けてくれた。
ヒサシに「別れる」と言わせるには、何を言えばいいんだろうか。それとも、何も言わない方がいいんだろうか。アスカは沈黙が落ちいている間、ずっと考えていた。けれど、答えは出ない。答えが出ないのだから、黙っている以外にどうすることも出来なかった。
沈黙を誰も破ろうとはしない。こんなに重たい沈黙は久々だった。
どうして「別れる」のたった一言をヒサシは言わないのだろう。どうして「別れる」のたった一言を言わせられないのだろう。
堂々巡りの思考にアスカは思わず溜め息をついていた。
その溜め息にヒサシの視線が動く。アスカとヒサシの視線がぶつかった。以前のアスカだったら、多少のトキメキがあったかもしれない。でも、今は違う。腹立たしさしか感じなかった。

「全てを手に入れるのは無理じゃない?」
アスカは半ば投げやりに言った。
「欲しいモノが全部手に入るなんて、その年なら無理なことくらいわかるでしょう?」
アスカの言葉にヒサシも溜め息をついた。
「手に入れられてきたんだ。別れさせ屋に依頼さえされなければ、手に入れたまま、過ごせたかもしれない」
「時間の問題よ。遅かれ早かれ、あなたは失っていたわ」
「そうかな? 失わずにいられたかもしれない」
「可能性の話をするにしては、現実離れしすぎてると思うけど」
アスカの言葉で再び沈黙が落ちた。
いつまでこんな生産性のない話をし続けなければならないのだろう。もうこの店に来て、随分と時間が経っている。
ふっとアスカは視線を店内に入って来たカップルに移した。その途端、一気に血の気が引いた。
アスカの視線の先には楽しそうに笑うマキコとその不倫相手であろう男性が手を繋いでいたのだ。
まずい、と思い、視線をテーブルへと戻す。ヒサシが気が付きさえしなければ、なんの問題もない。心臓の音が次第に速くなるのをぐっと堪えながら、アスカは奥歯を噛んだ。

沈黙は落ちたまま、ヒサシもレナも視線をテーブルの上に彷徨わせていた。隣にいるユウキの顔までは見えない。
アスカはさっさとマキコとその不倫相手が出来るだけ自分たちのいる席から遠くの席に座り、こちらに気が付かないでいてくれることを願った。
アスカの視線が動いて、レナやヒサシが気が付かないように、じっと前を見据える。
しかし、アスカの願いも空しく、ヒサシは視線を動かし、そして、呆気にとられたような表情を浮かべた。
ああ、見つけてしまったか……、アスカは思い、溜め息をつく。
ヒサシの顔が見る見るうちに青ざめていった。
自分が浮気をしているというのに、妻の浮気を見たら青ざめるなんて、随分と身勝手だな、とアスカは思う。けれど、同時に気の毒でもあった。
アスカはヒサシの異変に気が付かない振りをして、もう冷めてしまった紅茶に口をつけた。
ヒサシの様子に気が付いて、レナとユウキもヒサシの視線の先に目を遣った。そこにはマキコとその不倫相手が仲睦まじく、手を繋ぎ、楽しそうに会話している姿があった。レナとユウキはなぜヒサシがじっと見据えているのか、最初はわからなかったが、すぐに理解した。あれはヒサシの奥さんだ――。

アスカはヒサシが話し出すまで、何も言わないでおくことにした。レナと別れさせる為に依頼してきたのはあくまでユウキということになっている。今、アスカが変なフォローを入れてしまったら、マキコが依頼者である、と勘の良いヒサシなら勘付く可能性がある。
そんなアスカの考えを見抜いたのか、ユウキがヒサシを見て言った。
「どうかなさいましたか?」
「い、いや……」
明らかに動揺しているヒサシを横目にユウキは続ける。
「レナと別れてくれる気になりましたか?」
「……」
ユウキはヒサシが動揺している隙に、別れると言わせようとしているのだということにアスカはすぐに気が付いた。けれど、こんなことくらいで、ヒサシは首を縦には振らないだろう。
ヒサシはもう一度、マキコたちの方に視線を向ける。アスカも不自然にならないように、マキコの方へと視線を向けた。マキコはまだ不倫相手と楽しそうに話している。まだ。ウェイトレスに席へ案内されていないようだった。

不意にマキコの視線がアスカたちの方へと向いた。そして、あっという間にマキコの顔色が変わる――と思った。けれど、マキコは表情一つ変えることなく、再び、不倫相手の方を向き、笑顔を振りまいている。
ヒサシよりマキコの方が何枚も上手だ。アスカはさっきよりも気の毒に思いながら、ヒサシを見た。
ヒサシはアスカをじっと見る。もしかしたら、依頼者がマキコだとバレてしまったのかもしれない。緊張が走った。
「浮気って、されるとこんなにも心が痛いものなんですね」
ヒサシはその一言を言い残し、行ってしまった。

「あれは別れる、と捉えていいんでしょうか……?」
ヒサシが喫茶店を出て行った後、遠慮がちにレナは言った。
「いいんじゃないかしら。不倫される側の気持ちが漸くわかったのよ」
アスカは不安そうにしているレナににっこりと微笑む。
「これでやっと終わりか……」
ユウキは大きな溜め息をついて、天井を仰いだ。
「でも、さっきのは……」
「ああ、あれは奥さんが不倫相手とそこにいたから……」
「やっぱり……」
レナとユウキの口からは同じ言葉が同じタイミングで零れた。

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小説「サークル○サークル」01-423. 「加速」

「それでどうなったの?」
興味津々といったようにシンゴはアスカに続きを促した。
「ターゲットは奥さんに詰め寄ることなく、“浮気って、されるとこんなにも心が痛いものなんですね”って言って、先に一人で出て行っちゃったのよ」
「へぇ……」
シンゴは意外だと言いたげに相槌を打った。
「でも、これでターゲットの方は一段落したし、明日、依頼者に連絡して、成功を報告すれば今回の案件は終了するわ」
「そっか。それは良かったね。お疲れ様」
「うん、ありがとう」
アスカはシンゴの労いに微笑む。
漸く、随分と手を焼いていた仕事が片付くのだ。アスカはほっとしながら、熱々のビーフシチューを口に運んだ。
シンゴの作る、いつも通りの、ビーフシチューの味がした。

翌朝、アスカは事務所に行くと、早速、マキコに連絡を入れた。
結果、報告をしたい旨を伝えると、すぐに来るという返事をもらった。
アスカはどういった流れで、話を持って行こうか、と頭を悩ませていた。

小説「サークル○サークル」01-422. 「加速」

アスカは風呂から上がり、食卓テーブルを挟んで、シンゴと向かい合って座った。
熱々のビーフシチューと温玉サラダ、フランスパンが目の前に置かれている。
赤ワインで乾杯すると、二人は食事を始めた。
「今日は上手くいった?」
シンゴの言葉にアスカは待ってましたとばかりに口を開いた。
「上手くいったの。でもね、すごいハプニングもあったのよ」
「ハプニング?」
シンゴはビーフシチューを口に運ぶ手を止めて、不思議そうな顔をする。
「ターゲットの奥さん――依頼主が偶然、喫茶店に来たの」
「へぇ……。そんなことがあったんだ」
「しかも、奥さんは不倫相手とイチャイチャしながら、入って来たのよ」
「えっ!? それは修羅場になったんじゃ……」
「そう思うでしょ? でも、ターゲットが奥さんに気が付いて、じっと見てたら、奥さんもターゲットの視線に気が付いたのよ。だけどね、奥さんは顔色一つ変えなかったの」
シンゴは驚いたように目を見開いた。やはり、普通は動揺するものなんだな、とアスカは思った。

小説「サークル○サークル」01-421. 「加速」

「あの動揺の仕方はおかしかったですもんね」
「ええ。すごいタイミングよね。自分の奥さんの不倫現場を目撃するなんて。しかも、旦那に気が付いても、奥さんは顔色一つ変えなかったもの」
「だから、余計に傷ついたのかもしれませんね……」
レナは複雑そうに俯いた。まだヒサシに気持ちが残っているのか、それとも、一度は愛した人が傷つくのが辛いのか、はたまた、そのどちらもなのかはわからない。けれど、どちらにせよ、レナとヒサシの不倫は終わったのだ。
「でも、最後まで、不倫相手になる気持ちはわからないままだったんでしょうね」
アスカはレナの寂しげな微笑みが忘れられそうにもなかった。

ユウキとレナと別れて、事務所で簡単な事務処理をすると、アスカは帰宅した。
玄関のドアを開けると、ビーフシチューのいい香りが鼻先をつく。
「ただいま」
「あー、お帰り。今、ちょうど、夕飯作ってるところなんだ。先にお風呂に入っておいでよ」
「ありがとう」
アスカはコートをハンガーにかけ、バスルームへと向かった。


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