小説「サークル○サークル」01-11~01-20.「依頼」.まとめ読み

 最後まで書かずに何が面白くないんだか、アスカにはさっぱりわからなかった。作品が面白いかどうかは自分が判断することではなくて、編集や読者が判断することなんだから、さっさとプロットを書き上げればいいのに、とも思ったが、アスカはそれも口には出さなかった。言ったところで、何かが変わるわけではないのだ。
「でも、今度は大丈夫! きっと書けると思うよ」
「それは良かったわね」
 今の一言はさすがに嫌味ぽかったかな、と思ったが、シンゴはそんなことにすら気が付いていなかったようだった。「書けると思う」では困るのだ。生活のことを考えれば、「書かなければならない」ということをシンゴはわかっていない。アスカの収入があるから、どこかで安心感が芽生えてしまっているのだろう。アスカだって、何もシンゴに生活費の全てを期待しているわけではない。ただ料理は出来ない日が多くても洗濯や掃除などはアスカだってしているわけだから、せめて家賃の半分くらいは入れてほしいと思っていた。けれど、そんなことをシンゴに言って何になるというのだろう。危機感もなければ、大作が書ける気配もない夫を選んでしまったのは、自分自身なのだと、諦めることくらいしか、今の彼女には出来なかった。

 ぼーっとしているシンゴをちらりと横目で見遣り、アスカはそれ以上、もう何も言わなかった。シンゴと話すだけで、イライラが蓄積されていく。ストレスの元凶は仕事なんかではなく、夫のシンゴだと随分前から彼女は思っていた。
 勿論、彼女はシンゴを愛していたし、今でも愛していることには違いない。けれど、時々、なぜこんな男と結婚してしまったのだろうと、頭を抱えたくなることも多かった。若い頃はシンゴのことを「夢を持っていて、素敵な人」だと思っていた。しかし、時が経つにつれ、作家としていまいちパッとしないシンゴを見ていて、いつまでも現実を見ることが出来ないバカな大人だと思うようになっていった。その心の変化はうだつの上がらない夫を見ていれば、嫌でも起こってしまう。作家で食べていけないのなら、さっさと別の仕事を見つければいい、それが一家の大黒柱の役目だろう、と心の中では思っていたが、作家という仕事に執着しているシンゴに対し、そんなことを言っても無駄だということもすでに今までの経験から、アスカは理解していた。
 アスカはシンゴの用意した料理を残さず全て食べ終わると、「ごちそう様」とだけ言って、自室へと行ってしまった。シンゴはその背中を少し寂しそうに見据える。けれど、彼はアスカに声をかけなかった。否、かけることが出来なかったのだ。自分が彼女を怒らせていることに、少なからず、シンゴは自覚があったのだから。

 別れさせ屋は頭を使う仕事である。アスカはこの間、依頼のあった案件をどうやって解決に導くかということを、いつものように煙草をふかしながら考えていた。
「まずは身辺調査よね……」
 ぽつりとつぶやいて、彼女は眉間に皺を寄せた。ヒサシの行きつけのバー「crash」で接触を図るところまでは、決めていた。バーの下見はすでに済んでいたけれど、突然、毎日バーに通い詰めるのも怪しい。今回はアスカの事務所から近い場所での調査になるので、そのうちアスカの身元がバレてしまうだろう。
そうなってくると、問題はどのように接触するか、だった。隣に座って誘うには、アスカの顔の造りは残念だったし、色気で落とそうにも出るとこも出ていない貧相な身体では、セクシーさの欠片もない。そうなれば、そこにいてもおかしくない必然性が必要となる。
「面倒だけど、しょうがないか」
 アスカは煙草を灰皿に押しつけると、引き出しから履歴書を引っ張り出した。
彼女は適当な名前を記入し、学歴もそれっぽいものを書いた。年齢は少し若く記入する。ちょっとだけ見栄を張ってしまうのは、アラサー女の悲しい性だ。誰も咎めようがない。写真は以前の案件で履歴書を作成する必要があった時に撮ったものがあったので、それを丁寧に切り、貼りつけることにした。

「よし、これで完成っと」
 アスカは独り言を言いながら、履歴書を眺める。
「あとはこれをcrashに持っていけば、終わりね」
 彼女は下見に行った時に、crashで短期のアルバイトを募集していたのをしっかりと見ていたのだ。
「取り敢えず、洋服を着替えてこなきゃ」
 アスカは溜め息混じりにそう言うと、自転車で自分の家へと向かった。

「あれ? 早かったね」
 シンゴは洋服を着替えに戻ったアスカを見て、驚いたように言う。髪はボサボサで眠そうな目をしていた。きっと昼寝でもしていたに違いない。アスカはそんな夫の姿を見て、苛立ちを隠しきれなかった。内心舌打ちをし、彼女は夫の前を通り過ぎながら口を開いた。
「帰ってきたわけじゃないわ。着替えて、また出かけるの」
「そう。今日の夕飯は、ビーフシチューにするから、早く帰って来てね。アスカ、好きだろう?」
「今日は遅くなるかもしれないから、先に食べてて。私は帰ってきたら、温めて食べるから」
「そっか……」
 困ったような顔をして、シンゴは俯く。けれど、アスカはそんなシンゴの表情などまるで見ていなかった。彼女は仕事のことで頭がいっぱいで、それどころではなかったのだ。

 アスカはクローゼットの中から、背中の開いた少し露出度の高い白のニットを取り出す。彼女の唯一の魅力と言っても過言ではないのが、うなじの綺麗さだった。女として、誇れるものがこの部分だけしかないということに、若干うんざりしながらも、アスカはその武器を使うことにした。鏡の前で髪を簡単にアップにする。少し後れ毛が気になったが、きっちりしすぎない方が、かえって相手の油断を誘えていいことを彼女は知っていた。
ボトムにはスカートではなく、ラインストーンのついたジーパンをチョイスする。ミニスカートというコーディネートも一瞬頭を過ったけれど、それはやめた。あまり甘い感じのファッションにしてしまうと、男に媚びているような気がして、嫌だったのだ。男に媚びることは、彼女自身のポリシーに反する。
 アスカは手早く着替えると、ブランド品のトートバッグに普段使っているバッグの中身を丸ごと入れ替え、履歴書も一緒に入れた。
「じゃあ、行ってくるわ」
 アスカは脱いだ服を脱衣所に持っていく途中でシンゴに言う。
「うん。いってらっしゃい。帰り遅くなるなら、気を付けてね」
「私はいつでも気を付けてるわよ。それじゃあね」
 アスカはシンゴの方を振り向きもせずに、出て行った。そんなアスカの後ろ姿をシンゴはただぼんやりと眺めていた。玄関のドアは空しく閉まり、残響だけが彼の耳に残った。

 シンゴは時折考える。どうして、こんな風になってしまったのか、と。けれど、答えは一向に出る気配がなかった。誰が悪いわけでも、何が悪いわけでもない、と彼は思いたい。しかし、自分に非があることは明らかだった。薄々感じてはいるのだ。自分の不甲斐なさに、アスカが次第にイライラを募らせているということも、それを解消する為には自分が作家として、しっかりやっていかなければいけないということも。でも、シンゴにはどうしたらいいのかがわからなかった。自分の中に書きたいものはぼんやりとある。しかし、それを形にするにはまだ早い。この気持ちは作家にしかわからないし、第三者にいくら説明したからと言って、理解してもらえるものでもなかった。シンゴはそれをわかっているだけに、アスカに表面的なことしか伝えられず、結果として、軽い言葉の羅列になってしまうのだ。
――もう少し、時間をかければ……。
 シンゴはそう思いながら、アスカを見送った後、机に向かった。パソコンの画面は明るく、開かれたワードには未だ一行しか書かれていない。『僕の奥さんは別れさせ屋で働いている。』彼は自分の実体験を元に小説を書こうとしていた。

 駅に向かう道すがら、アスカはぼんやりとシンゴのことを考える。シンゴのことは愛している、と確かに思う。けれど、顔を見たり、話したりするだけでうんざりしてしまう自分がいるのもまた事実だった。確実に自分たちの愛情は行き違い始めている。どうにかしたい。以前のように、シンゴをもっと大切に思いたい。そう思ってはみるものの、彼女は何度愛そうと思っても、感情の波に抗えずにいた。シンゴと別れて、別の男とやり直す、ということも考えてはみたけれど、いかんせん、この仕事で出会いなどあるはずもない。今更1人になることは気がひけた。今ここで別れてしまっては、今まで支えた分を損してしまう、という思いが彼女にないことがせめてもの救いだろう。
 アスカは改札を抜け、電車に乗り込むとドアの前に立ち、溜め息をついた。電車が動きだし、景色が少しずつ変わっていく。景色が変わっていくのに、気持ちは同じ場所に停留し続けている。そのもどかしさが今のアスカには耐え難かった。

 アスカの腕時計は午後5時半を指していた。腕時計から顔を上げると、黙々と目的地まで歩いて行く。風は家を出た時よりも冷たくなっていた。
駅から続く商店街で擦れ違うのは、スーパーの袋を下げた主婦や学校帰りの中高生ばかりだ。アスカも見方によってはスーパーに向かう主婦に見えただろうが、背中の開いたニットが少し場違いな印象を与えていた。
駅から徒歩8分のところに「crash」はあった。パッと見、ラブホテルかと見間違いそうになる外観にアスカは思わず吹き出しそうになる。何度見ても見慣れない外観は、白と黒のコントラストが明らかに商店街の中で浮いていた。
 ドアをゆっくりと開けると、カランカランとドアベルが控えめに鳴る。アスカはゆったりとした足取りで店内に足を踏み入れた。薄暗い店内には静かなBGMがかかっており、客は時間が時間だけに、誰1人としていない。
「いらっしゃい」
 そう言って、出迎えてくれたのは、「crash」のマスターだった。年の頃なら、40代後半といったところで、昔はそれなりに遊んでいたんだろうと思わせる雰囲気を漂わせている。アスカは調査の為に数回通っていたので、マスターの顔はよく覚えていた。けれど、マスターが自分を覚えているかどうか、アスカにはわからなかった。顔を覚えてもらっていなければ、事前に連絡も入れず、履歴書を持って来たのは、印象が悪いだけだろう。しかし、電話で約束を取り付けなければ、取り敢えず面接だけはしてもらえる可能性がある。アスカにとって、突然履歴書を持って来たのは、一種の賭けだった。

「あの……」
 席にもつかず、カウンターの前で佇んでいるアスカにマスターは怪訝な顔をする。
「何か……?」
「求人の貼り紙を見て、面接を受けさせていただきたくて、来たんですけど……」
 そう言って、アスカはおずおずとトートバッグの中から、履歴書を取り出した。
「あぁ、フロアレディ募集の貼り紙のことですね……」
 マスターは表情を一変させる。眉間に寄せられた皺は消え、その代わり、目元に笑い皺が見えた。作り笑いなのはすぐにわかったが、それでも多少は歓迎されていることに、アスカはほっと胸を撫で下ろす。
「幸い、店内に客もいないし、そちらのソファ席へどうぞ」
 マスターは笑顔を絶やさぬそのままでカウンターから出て来ると、アスカをソファ席へと案内した。
「失礼します」
 向かいの席にマスターが腰をかけたのを見計らって、アスカは遠慮がちにソファに腰をかける。
「えーっと……ハタノ モモエさん……。年齢は27歳……。ほぅ、前職は書店員ですか」
「はい。本が好きなので……」
 アスカは本当のことを言う。子どもの時から本が好きだった。出来ることなら、作家になりたいと思っていた時期もある。大きな嘘を並べ、小さな嘘は極力つかない、ということをアスカはモットーにしていた。そうすれば、意外にも大きな嘘はバレずに済むのだ。

「でも、どうして、またうちの店に? 全く違う職種でしょう?」
 マスターは履歴書から顔を上げて、アスカに問う。アスカはマスターの視線を受けて、にっこりと微笑んだ。
「実は数回ここに飲み来たことがあるんですけど、その時、とてもこのお店を気に入って……。こういうお店で働きたいなって思ったんです」
 アスカは普段とは違いおしとやかに振る舞った。今のアスカからは、机の上に足を上げて、煙草をふかしている姿など到底想像することなど出来ない。
「あぁ……。思い出しました。よくカウンターの左端で飲んでいた……」
「覚えててくれてたんですか?」
 アスカは大袈裟に喜んで見せる。マスターは鼻の下を少しだけ伸ばした。
「こういう仕事をしていると、ある程度は人の顔を覚えてるものですよ」
 マスターは誇らしげに言う。アスカは内心「私のことすぐにわかんなかったくせに、嘘つけ」と思ったが、微笑みを崩さないようにマスターを見つめていた。
 アスカの造形は美しくない。けれど、どうすれば、愛想良く、愛嬌のあるように見えるか、ということは熟知していた。勿論、自分がそういったしぐさをしたところで、大した威力がないこともわかっている。けれど、しないよりはした方がマシだということも彼女は知っていた。
「いつから入れるの?」
 マスターは履歴書に視線を落としたまま言った。アスカは待ってましたとばかりに口元を上げる。
「今日から入れます」
 こうして、アスカは今日の夜から、crashのフロアレディとして働くことになった。

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