小説「サークル○サークル」01-416. 「加速」

埒が明かないな、とアスカは思った。こんな時、シンゴならどうするだろう、とふと思う。
別れさせ屋なのは、アスカだったが、そのブレーンはシンゴと言っても過言ではない。行き詰った時は、必ずシンゴが助けてくれた。
ヒサシに「別れる」と言わせるには、何を言えばいいんだろうか。それとも、何も言わない方がいいんだろうか。アスカは沈黙が落ちいている間、ずっと考えていた。けれど、答えは出ない。答えが出ないのだから、黙っている以外にどうすることも出来なかった。
沈黙を誰も破ろうとはしない。こんなに重たい沈黙は久々だった。
どうして「別れる」のたった一言をヒサシは言わないのだろう。どうして「別れる」のたった一言を言わせられないのだろう。
堂々巡りの思考にアスカは思わず溜め息をついていた。
その溜め息にヒサシの視線が動く。アスカとヒサシの視線がぶつかった。以前のアスカだったら、多少のトキメキがあったかもしれない。でも、今は違う。腹立たしさしか感じなかった。

小説「サークル○サークル」01-401~01-410「加速」まとめ読み

「今日、あなたをお呼びしたのは、彼がレナさんと別れるにあたり、あなたと話をしたいとおっしゃったからなんです」
アスカはヒサシとレナ、ユウキを交互に見ながら言った。
レナは申し訳なさそうに俯いていたけれど、ヒサシは堂々とユウキを見据えていた。
一体、ヒサシはユウキに何を言うつもりなのだろう、とアスカは不思議に思いながら続けた。
「知っているでしょうけど、レナさんはこちらにいるヒサシさんと不倫関係にあります。私はあなたの依頼によって、このお二人を別れさせることになりました。しかし、見ておわかりになるでしょうが、ヒサシさんはその事実をご存じです。そして、レナさんと別れるにあたり、あなたとお話されることを望まれました。あなたとお話をすれば、レナさんとは別れてくれるそうです」
アスカは一息に話した。
ユウキにはすでに依頼者の振りをしてもらえるように以前お願いはしている。
あとはヒサシにバレないように依頼者の振りをしてもらえば丸く収まる。

「そうですか……。僕と何をお話になりたいんですか?」
ユウキはいつものように“俺”とは言わずに、丁寧に“僕”と言った。その姿勢からは緊張が溢れている。アスカはドキドキしながら、隣に座るユウキを見ていた。彼がもし感情的になってしまったら、今回の計画は全て失敗に終わる。アスカもユウキ同様、緊張していた。
「何を……そうですね。どうして、私と彼女を別れさせたいのか、という理由からまず聞きましょうか」
大人の余裕なのか、はたまた依頼をしていることを知っているという余裕なのか、ヒサシはいつもとは少し違うゆったりとした口調で喋った。
アスカはヒサシの違いにドキリとする。その驚きと緊張がヒサシにバレないようにアスカは神妙な顔つきで静かに二人の話に耳を傾けていた。
ユウキは小さく深呼吸をする。息の漏れる音がアスカの耳に届き、アスカの緊張は更に高まった。こういう時、自分がどんと構えていなければ、と思うのに、緊張してしまうのだから困ったものだ。

自分が何かをするのなら、緊張を通り越し、腹をくくることが出来る。けれど、誰かの緊張を伴うシーンを見るのは、なかなか安心することが出来ないものだ。
アスカはそんな緊張に気付かれないようにじっとヒサシのことを見た。ユウキを見ているより、ヒサシを見ている方がいくらか心が落ち着いた。それはきっとヒサシの佇まいが落ち着いているからだろう。
「不倫は幸せになれないからです」
ユウキははっきりとした口調で言った。あまりにもはっきりと言ったので、アスカは思わずユウキを見てしまった。
ユウキの言葉にヒサシは黙っている。表情一つ変わってもいない。
ユウキはきっとそんなヒサシを見て、不安を覚えていることだろう。
アスカは黙ったまま、次の展開を待った。
ほんの少しの沈黙の後、ヒサシはテーブルに視線を落とした。
「不倫は幸せになれない、か」
ヒサシはそれだけぽつりとつぶやくと、コーヒーに口をつける。
「不倫が幸せか不幸せかは、個人差があるとは思いませんか」
ヒサシの言葉にユウキが動揺するのがアスカには手に取るようにわかった。

「個人差ですか?」
ユウキはヒサシの言っている言葉の意味が理解出来ないと言いたげに同じ言葉を口にする。
「そうです。不倫は時に幸せでもあり、不幸せでもあるのではないか、と私は思っています。たとえば、不倫をしている当事者同士でも幸せだと感じている人もいれば、不幸せだと感じている人もいるでしょう。好きな人と一緒にいられて幸せだ、と思っている人もいれば、どうしてこんな関係を持ってしまったのだろう、と不幸せに思っている人もいるかもしれません」
ユウキはただひたすらヒサシの言葉を黙って聞いている。アスカは気を紛らわせるようにカップに口をつけた。レナもそれに合わせたようにカップを手にした。
「パートナーに不倫をされている当事者――今回だと私の妻の立場です。その人にとっても、幸せな場合と不幸せな場合があると思います」
「不倫をされているのだとしたら、不幸せしかないのでは?」
ユウキは納得がいかない、と言いそうにヒサシを見た。
アスカはそんなユウキの態度に不安を募らせる。
相手はヒサシだ。感情の起伏を見せるのは、最低限にしていた方がいい。
ヒサシは感情的になるユウキを見ながら、淡々と続けた。
「夫婦関係が冷めきっていて、離婚をしたいと思っているけれど、離婚を出来ずにいるのなら、相手が不倫をしてくれることは幸せなことだと思いますよ。夫婦間に特に大きな問題もないのにただ冷めきっているだけでは、相手に離婚を拒否されれば、離婚すること自体が難しいでしょう。世間体もありますしね。裁判になったとしても、離婚出来る確率はとても低い。でも、相手が不倫してさえくれれば、あっさりと離婚出来る上に慰謝料までもらえるんですから」
「でも、大抵の場合、不幸せでしょう?」
「大抵の場合は、というより、バレた場合は、では?」
ヒサシの言葉にユウキはぐうの音も出ないようだった。
「バレなければなかったことと同じ、という言葉はあなたも聞いたことがあるでしょう。不倫されている立場で不倫を不幸せだと感じるのは、不倫されているという事実を知ってしまった、その時だけだと私は思います」
ヒサシの言葉には妙な説得力があった。

ヒサシの言葉には一理あるな、とアスカは思った。本人が不幸せを感じる時は、“不倫を知ってしまった時”だ。知らなければ確かになかったことと同じだろう。けれど、アスカはこうも考える。パートナーに裏切られた時点で目に見えない不幸は始まっているのだ。目に見えない不幸は、生活の端々に顔を覗かせ、やがて余計なひずみを生む。そのひずみに気が付かない程、人間はバカじゃない。
「現段階では誰も不幸せになってないと私は思いますけど、いかがですか?」
ヒサシは静かにユウキに言った。
「……間違えてますよ、あなた」
「何をですか?」
ユウキの言葉にヒサシは眉間に皺を寄せる。何をふざけたことを言い出そうとしているのだ、と言いたげだった。
「誰も不幸せになっていないって、本気で思っているんですか?」
ユウキはヒサシを睨みつけるように見た。
アスカはユウキが何を言い出そうとしているのかわからず、ヒヤヒヤしていたが、彼の次の言葉を黙って待っていた。

「レナは不幸せになっていますよ」
ユウキの言葉にヒサシの眉が片方だけ上がったように見えた。
「どうして、あなたがそんなことを言い切れるんですか? 彼女に聞いたとでも?」
「聞かなくてもわかります。僕は彼女と子どもの時からの付き合いなんです。彼女を見ていれば、今が幸せなのか、不幸せなのか、わかりますよ」
ヒサシはユウキの言葉を鼻で笑った。
「本人に聞きもしないで、幸せか不幸せかわかる? なんの為に言葉があると思ってるんですか? 言葉で確認しないことには真実はわからないでしょう」
「時として、言葉が嘘をつくことをあなたは知らないんですね」
「……」
ユウキの言葉にヒサシは口を閉ざした。
まさか、ユウキからそんな言葉が飛び出すとは思っていなかったのだろう。
「きっとレナはあなたに“幸せか?”と訊かれたら、幸せだと答えるでしょう。恋人に幸せか? と訊かれて、不幸せだと答えるほど、彼女は無神経ではないですから」
アスカはユウキの饒舌さにただただ感心するばかりだった。

アスカはレナの様子が気になって、ちらりと彼女に視線をやった。
レナは俯いている。何も言葉を発しないのは、ユウキの言っていることが正しいからなのか、間違っているからなのかはわからない。ただ一つ言えることは、彼女にとって、今、この空間は居心地が悪いであろう、ということだった。
アスカも敢えて、ヒサシとユウキの会話に口を挟まない。
彼ら二人で気の済むまで話をすればいいのだ。心にモヤモヤが残ったままでは、お互いの為に良くない。モヤモヤした気持ちはいずれ心に滞留し続け、歪んだ方向に爆発する可能性だってある。後腐れないのが一番良い。その為には言いたいことを言わせる必要があった。
沈黙したまま、誰も言葉を発しない。
ユウキは言いたいことを言ったし、ヒサシはなんて言葉を返せばいいのか思案しているようだった。
ヒサシはきっとレナに事実を確認したいだろう。けれど、ここでレナに幸せだと言われたところで、レナに無理やり言わせている感は拭えない。

「仮にレナが不幸せだったとしましょう。では、どうして、不倫を続けたと思いますか?」
「それは……」
ヒサシの言葉に今度はユウキが黙る番だった。
レナは俯いたまま、二人の話を聞いている。
自分の所為でいがみ合わなくてはいい二人がいがみ合っているのだ。そんな光景を見るのは、心苦しいだろうし、今にも逃げ出したい気分だろう。
そう思いながら、アスカはレナを見つめていた。
こんな若さで、こんな思いをする必要性は彼女にはなかったはずだ。ただ一つ、不倫という道に足を踏み入れさえしなければ、良かっただけの話なのだ。
けれど、彼女は踏み入れてしまった。それは自業自得だけれど、なんだかちょっぴり可哀想にも思う。きっと彼女が以前口にしていたヒサシの奥さんへの謝罪の言葉の所為だろう。。
「それは……」
ユウキはしばし考えた後、言葉を選びながら口を開く。
「それは、あなたのことが好きだからではないでしょうか」
ユウキにとって、レナがヒサシのことを好きだと認めるような発言はしたくなかったに違いない。
もしかしたら、ヒサシはわざと“レナが誰を好きか”ということをユウキに言わせるように仕向けているのかもしれない。ユウキが傷つき、動揺するのを狙っていることも十分考えられる。ヒサシは策士だ。頭が切れる。アスカはユウキが暴走しないことをただただ祈るばかりだった。
「だとしたら、問題ないのではないでしょうか? 好きな人と一緒にいたい、その想いを叶えられるんですよ?」
「それが不倫という形でなければ良いことだと思います。幸せなことでしょう。けれど、不倫であれば、一緒にいることで幸せだったとしても、別の感情も一緒に沸くとは思いませんか?」
「別の感情とは?」
「罪悪感や悲しみ、嫉妬……様々な不安を誘因する感情です」
ユウキの言葉をヒサシはふっと鼻で笑った。なぜ鼻で笑われたのか、ユウキはわからないようで眉間に皺を寄せる。
「失礼。それは、恋愛をしていたら、どんな人でも持つ感情ではありませんか?」
「……」
ヒサシの言うことはもっともだ。思わず、ユウキは言葉を失った。

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小説「サークル○サークル」01-415. 「加速」

「私はあなたと離れることが怖かったの。奥さんに申し訳ないって気持ちだって、ずっと消えることはなかった」
「……」
「そんな気持ち、私が持っていたことだって、ヒサシさんは知らなかったでしょ?」
レナの言葉にヒサシは罰が悪そうな顔をする。レナの言っていることが図星なのだろう。
ヒサシは自分の意のままに、相手を誘導するのが上手いし、女心だってよくわかっている方だろう。けれど、肝心な部分まで、相手のことを見てはいないのだ。
「黙ってるってことは、図星でしょ?」
いつものレナとは明らかに違った。
アスカの前では、弱気な面を見せていたけれど、ヒサシの前でこんなにもはっきりと発言するのだ。
だからこそ、レナの意思の強さをアスカは感じていた。
アスカはただ傍観しながら、ことの行く末を見守っていた。
ヒサシが一言「別れる」と言えば、この話は全て終わる。
けれど、ヒサシはその一言を決して口にはしない。
それはとても狡いことだ。きっとヒサシは気付きながらも、その狡さを心の中で肯定している。

小説「サークル○サークル」01-414. 「加速」

きっと、ユウキは今の自分に当てはまるから、言葉を失ったのだろう。ユウキは片思いだとわかっていても、レナと会えることで幸せを感じているに違いなかった。
「いい加減にしてよ」
突然、ずっと黙っていたレナが口を開いた。アスカは驚いて、レナの方を見る。
「私のこと、なんだと思ってるの?」
レナは抑えた声の中にも怒りを滲ませていた。
「私はあなたに片思いをしていたとでも言うの? 私はあなたの一番だと思ってたから、付き合ってたの。それなのに……」
「そういう意味じゃない。言葉のあやさ」
「言葉のあやなんて嘘。そういう気持ちがなければ、出てこない言葉よ。わかってた。あなたに本当は私以外の女の人がいることも」
「……」
ヒサシは意外だというように、ほんの少し目を見開いた。彼が驚きを示したのは、その一瞬だけで、すぐに元の表情へと戻る。
アスカはレナが他にも浮気相手がいるという事実を知っていた、ということを気の毒に思った。大勢いる中の一人である、ということが、どれほど、女のプライドを傷つけるかは、想像に難くない。

小説「サークル○サークル」01-413. 「加速」

アスカはなるようにしかならない、と思っている反面、彼女の心の中から緊張が消えることはなかった。
「好きな人と一緒にいられる幸せ、とおっしゃいましたよね?」
「ええ」
「その好きな人と一緒にいる幸せとは、お互いがお互いだけを思い合ってる時にこそ、そこに存在するものではないでしょうか?」
「何をおっしゃりたいのかさっぱりわかりません」
「あなたには奥様がいらっしゃるんです。あなたが口ではいくらレナが一番だと言ったところで、二番は奥様ですよね。好きな人に順番がある時点で、その類の幸せは存在しないのではないでしょうか?」
ユウキの言葉にヒサシは「なるほど」と言い、ほくそ笑んだ。
「確かに私には二人の女性がいます。けれど、こうは考えられないでしょうか? 片思いであっても、好きな人に会える幸せは感じますよね? 好きな人に会える幸せというのは、片思いであるか、両思いであるかなんて、関係ないとは思いませんか?」
ヒサシの言葉にユウキは黙った。


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